■節子への挽歌1069:節子との思い出はいつも断章的に浮かんできます
節子
久しぶりに市川智博さんが湯島に来ました。
節子もよく知っている市川覚峯さんの息子さんです。
節子と一緒に行った高野山で会った時にはまだ小学生でした。
節子は、それ以来、会っていませんが、とても素直な好青年に育っています。
彼と話しているうちに、節子といった高野山のことを思い出しました。
高野山で行を重ねてた市川覚峯さんが、21日の断食満行の日に私たちにぜひ来てほしいと連絡があったのです。
高野山の宿坊でとまり、翌朝早く、真っ暗なお堂で覚峯さんに護摩を焚いてもらいました。
あまりにも真っ暗で、お寺で泊まったことのなかった私にとっては怖いほどでした。
それから覚峯さんに案内してもらい、奥の院まで歩きました。
覚峯さんは、円の行者が天空を走り回ったように滑るように先導してくれました。
智博さんも一緒でした。
節子にもきっと心に残る体験だったでしょう。
節子の訃報を聞いた覚峯夫妻はすぐにわが家に来てくれ、枕経をあげてくれました。
しかし、覚峯さんに誰が訃報を伝えてくれたのでしょうか。
その日はそんなことを考える余裕もありませんでしたが、
今から思うと不思議なことがたくさんありました。
高野山に節子と行ったのは桜の時期だったような気がするのですが、なぜかあまり現実感がありません。
アルバムを見たら季節はわかるのでしょうが、高野山に限らず、節子との共通の体験は不思議なほどに現実感がなくなっていることが多いのです。
そのくせ、誰かに会ったり、何かに体験したりすると、断章的な思いでが浮かんでくるのです。
節子がいなくなってからの節子との思い出は、明らかに変化してきています。
バラバラになってしまっているように思います。
思い出を貫く時間軸がなくなってしまっているのかもしれません。
思い出すことはすべて断片的。
そのくせ、実に生々しく感傷的なのです。
そしていつも節子は笑いながら私に声をかけています。
声は感じられますが、内容は伝わってこないのも、不思議なのですが。
節子との思い出は、ほかの記憶とはまったく違っているような気がします。
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