■節子への挽歌1074:複雑なひがみ
この挽歌を読んでくださっているYHさんは、1年前に伴侶を見送りました。まだお会いしたことはないのですが、時々いただくメールの言葉に感ずることも少なくありません。
先週いただいたメールにあった次の文章もその一つです。
平均寿命が延びたと聞くと 腹立たしく その怒りがそのまま自分自身に向かってきます。実は私も同じような思いを感ずることがあります。
なんとまあひがみっぽくなったのだろうと、われながら思いますが、YHさんが書いているように、なぜか怒りさえ感ずるのです。
愛する妻に、平均寿命さえも全うさせられなかったのかという敗北感を、平均寿命が延びたと喜んでいる世相が逆なでしてくるのです。
まわりの人が幸せになれば自分も幸せになるだろう、というのが私の信条ですし、これまでは実際にそうでした。
誰かの笑顔を見れば楽しくなるように、幸せは必ずつながっています。
だとしたら、平均寿命が伸びることは喜ばしいことです。
そんなことはよくわかっているのですが、なぜか素直に喜べない自分がいる。
まさか私がそんなことを考えているなどと思っている人はいないでしょう。
でも恥ずかしいことに、そうなのです。
寿命の話に限らず、こうした「ひがみ」状況に陥ることが、時にあります。
敗者のひがみなのかもしれません。
平均寿命を全うしないからといって敗者とはいえない、そう思うことそのものが「ひがみ」だといわれそうですが、「敗北」は節子ではなく、守ってやれなかった私の敗北なのです。
そういう意識を持つことは、節子への冒涜かもしれないという気持ちもあるのですが、どうしてもその敗北感から抜け出られないのです。
敗北感があると世界はひねくれて見えてきます。
そしてますます自己嫌悪が強まり、気が滅入っていく。
深い深い穴の底にいるような気分です。
この曲がってしまった「ひがみ根性」を正さなければいけません。
しかしこれまた不条理なことに、それを正してくれることができるのは、節子以外にはいないでしょう。
つまり彼岸に行くまでは直らないのです。
バカは死ななきゃ直らない、という言葉がありましたが、まさに今の自分はそうなのかもしれません。
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