■節子への挽歌1070:手賀沼の花火
手賀沼の花火でした。
節子との思い出が強烈過ぎて、花火好きの私もとても複雑な気持ちでこの季節を向かえます。
そもそも今の家に転居した理由の一つは、花火会場が目の前だったからです。
このことは前にも書きました、
闘病中の花火のことは思い出そうにも思い出せないほど、私には辛い日でした。
もちろん節子の辛さは、その比ではなかったのですが。
今年も私は誰にも声をかけませんでした。
しかし本当は人が来てくれたほうが心は落ち着くのです。
幸いに今年はジュンが結婚したので、義母とその娘、息子さんたちが来てくれました。
ジュンの連れ合いは仕事の関係で来られないのが残念ですが、来年はお店を閉めて来ると言ってくれています。
ユカの友だちも来てくれました。
私の兄夫婦も来てくれました。
来客がある時は張り切っておもてなしをする、それが節子の文化でした。
それは私の母の文化でもありました。
その文化はそれなりに伝わっていますので、昨日と今日は、私も娘たちと一緒に家の掃除から買い物まで分担しました。
もっとも最近、私は食べ物のおもてなしの文化にどうもなじめなくなってきてしまっているのです。
飽食の時代を生きるものとして、やはりその生き方に抗わなければいけないという、奇妙な思いが最近強くなっています。
だから湯島のオープンサロンも珈琲とクッキーだけにしてしまいましたし、参加者の持ち込みも歓迎しなくなっているのです。
つつましやかに飲食すれば、余った分は必ずどこかに回っていくはずです。
あまり論理的ではないのですが、まずはできるところから生き方を正していく、これも節子から学んだことです。
手賀沼花火は昨年は中止でしたので、2年ぶりでした。
来てくださった方たちはみんな喜んでくれました。
しかし、節子はいつもおもてなしに忙しく、ゆっくりとこの花火を見ることもなかったのではないか、そんなことを思うとやはり今年の花火も辛い花火ではありました。
いつか節子と2人だけで、お茶だけを飲みながら、屋上でゆっくりと花火を見たかったなあ、とつくづく思います。
今日はだれにも気づかれないように、節子の写真を屋上に置いておきました。
節子は花火を楽しんでくれたでしょうか。
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