■節子への挽歌1076:悲しみとの同化
節子
25年前の昨日は日航ジャンボ機墜落事故が起きた日でした。
この事故は私たちにも衝撃的で、いつもこの季節になると節子と話題にしていたことを思い出します。
そのせいか記憶がいまでも実に生々しく、もう四半世紀も経つのかという気がします。
私でもそうですから、遺族のみなさんはいまなお癒えることのない悲しみのなかにいることでしょう。
遺族のみなさんの会の事務局長の美谷島邦子さんが、最近出版した「御巣鷹山と生きる」(新潮社)のなかに書いている文章が、昨日の読売新聞の「よみうり寸評」に紹介されていました。
「人は悲しみに向き合い、悲しみと同化して、亡くなった人とともに生きていく」
悲しみとの同化、心にすっと入ってくる言葉です。
悲しみが感じられないほどに悲しい私のいまの心境に通じていると思いました。
ところが少したって気づいたのですが、同化している主体は何なのでしょうか。
この文章からいえば、「人」になります。
人は悲しみに向き合い、そして人は悲しみに同化する、とわけです。
私のことで言えば、私が悲しみに同化するというわけです。
となると、私の存在そのものが「悲しみ」ということになります。
そう考えるとちょっと違うような気もしてきます。
美谷島さんに異を唱えようと言うのではありません。
この美谷島さんの気持ちはよく理解できるのです。
だからこそ、最初にこの文章を読んだ時には素直に共感したのです。
でもなぜか、その言葉が気になってしまい、余計なことを考え出してしまったのです。
そして、この文章の「悲しみ」を「愛する故人」と読みかえるとすっきりするなと気がついたのです。
「亡くなった人」も、その意味は「愛する故人」ですから、つまりはこうです。
「人は愛する故人に向き合い、愛する故人と同化して、愛する故人とともに生きていく」
私の場合で言えば、こうなります。
「亡き」は不要ですが、意味を明確にするために加えてみました。
「私は亡き節子に向き合い、亡き節子と同化して、亡き節子とともに生きていく」
つまりこういうことです。
愛する人を失った人にとっては、「悲しみ」と「愛する人」とは同じものなのです。
同化するのは、私である前に、愛する人と悲しみなのです。
愛する人が「悲しみ」をすべて背負って、その象徴になるのです。
ですから、愛する人を失う悲しさを体験してしまうと、もはやそれ以上の「悲しさ」はなくなってしまいます。
不謹慎な言い方ですが、地球が破滅しても悲しくはないのです。
しかし、人生において、「悲しさ」がなくなってしまうほど悲しいことはありません。
ですから、悲しみが自分と同化してしまうと言ってもいいのかもしれません。
自分も愛するものも悲しみも、全てが一体化してしまう。
こう考えると実に今の私の心境にぴったり会います。
このように、ちょっとした「言葉」に反応してしまうようになったのも、節子がいなくなってからです。
いつか書いたような気がしますが、愛する人を見送ると、人は哲学者になるのです。
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