■節子への挽歌1082:愛するとはどういうことか1
節子
いまハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「正義」をテーマにした講義が話題になっています。
ハーバード大学史上最多の履修者を出した講義だそうです。
今年の春にNHKのテレビでそれが放映されて多くの人が見たようです。
私は見落としましたが、幸いに今週再放送をしているため、毎日、見ています。
講義の内容それ自体は大学の講義ですから、そう示唆に富んでいるわけではありません。
むしろ退屈と言うべきかも知れません。
しかし、講義での教授と学生のやりとりは実に面白いのです。
節子がいたらきっと私と一緒にみたはずです。
そしてそこからいろいろと議論が始まったかもしれません。
今日、挽歌で取り上げたのは、そうしたことでも、またその内容に関することでもありません。
「愛する」ということの意味についてです。
今日の講義で語られた「愛」は、愛国心でした。
愛国心そのものは、悩ましいテーマですが、私は明快な考えを持っています。
それに関しては時評編で何回か書きました。
今回書こうと思ったことは、「愛とは求心的なものか、遠心的なものか」ということです。
そんなことがサンデルの講義で語られていたわけではありませんが、テレビを見ていて急にその問題が頭に浮かんできたのです。
求心・遠心というよりも、排他的か包摂的かといったほうがいいかもしれません。
何かを、あるいは誰かを愛することは、そのほかのものを排他することかどうかということです。
もしそうであれば、愛することは憎むことの反面ということにあります。
このテーマは、以前一度書こうとしてやめていました。
少しこの問題を考えてみようと思います。
暑さでいささか思考が途絶えていますので、少し脳を活性化しなければいけません、
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