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2010/08/23

■節子への挽歌1086:第三の他者

節子
最近、思考力が弱まっているのは暑さのせいだけではないのかもしれません。

「私は他人を通してしか考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」
これはパウロ・フレイレの言葉です。
フレイレは「変革」を目指す人には知れ渡った人のようですが、私は恥ずかしいことに今年になるまで意識したことのなかった人です。
読み出したのは、つい最近です。
その主張にあまりに強く共感できるので驚いています。

フレイレは、人は他者との対話を通して主体を形成していくというのです。
これは、もちろん私の考えでもあります。
人は話すことによって考え、話すことによって自らを育てていきます。
私が話し合いの場としてのサロンが好きなのは、こうした考えを確信しているからです。

「他者」には3つの他者があるように思います。
一般的な意味での他者、つまり自分以外の存在が第一の他者です。
もう一つは、自らの中にいる他者としての自分です。
そして、最近、もう一つの他者がいることに気づきました。
それは、他者であって他者でなく、自らであって自らでない存在です。
そういう人は、すべての人にいるわけではありません。
私もこれまでの人生において、そういう存在がいたのはおそらく20年弱でしょう。
いうまでもなく、それは節子ですが、節子が私にとっての「第三の他者」になったのは、たぶん私たちが40代後半になってからです。

私たちは「対話する夫婦」でした。
よく話しました。
もちろん喧嘩もしましたし、学びあいもしました。
しかし、フレイレがいうように、それぞれの相手を通して考え、相手を通して行動するようになったのは2人とも40代後半になってからです。

その相手がいなくなったことは、私の思考の世界を貧しいものにしてしまったような気がします。
最近そのことに気づきました。
娘たちとの対話も、もしかしたら貧困化しているのかもしれません。
おそらく娘たちはそれを感じているでしょう。
伴侶を失ってしまうことで失うものはたくさんあるようです。
世界は間違いなく狭くなってきています。
それに抗うことはできません。
ただただ慣れるだけです。

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