■節子への挽歌1080:送り火の後のさびしさ
お盆で帰宅していた節子をみんなでまた送りました。
ジュン夫妻も来てくれました。
ジュンのパートナーの峰行さんは、これまであまり法事などに出たことがないので、積極的にこうした行事に参加したいといってくれています。
節子と結婚した頃の私と少し似ています。
私も実際の仏事には疎かったのですが、節子の実家での法事で集まった人たちがみんなで読経するのを目の当たりにして、興味を引かれたのです。
そして、節子からいろいろと教わりました。
もっとも「書籍論」的には私のほうが詳しかったのですが、書籍上の知識が具体的な現実につながることで、お互いに学びあえたのです。
そんなこともあり、私も一応は少しだけ仏事への知識もあるのですが、そのわずかばかりの知識を少しずつ披瀝しているわけです。
もっとも私の流儀は、きわめて私的なのです。
仏壇やお墓の前でも手をたたきます。
節子は最初嫌がっていましたが、それが私の流儀であることを認めて、黙認してくれるようになりました。
ですから私が伝授するといささか危ういのですが、その危うさも含めて伝えるようにしています。
夕方、お寺に送り火に行ったのですが、いつもになく大勢の人がいたような気がします。
この文化はまだきちんと残っているなとうれしく思いました。
帰宅して精霊棚を片付けました。
なぜか急にさびしさが襲ってきました。
不思議です。
節子はやはりわが家に常在しているのではなく、彼岸にいるのでしょうか。
それにしても、このさびしさはいったい何なのか。
昨年までは体験したことのない気持ちです。
お盆時にはよく節子の実家に帰省していましたが、その頃の風景もなぜか思い出されるのです。
節子がいるうちに思い出さなかったのに、なぜ送り火の後にそれが思い出されるのでしょうか。
いなくなってようやくその大切さに気づくという愚かしさは、今も直っていないようです。
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