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2010/08/30

■節子への挽歌1093:「愛される生き方」か、「愛する生き方」か

「愛されるものが愛するものを動かす」と言ったのはアリストテレスだそうです。
私は学生の頃からこの言葉には否定的です。
この発想では「愛」がいかにも矮小なものに感じられるからです。

久しぶりに、ある本で、この言葉に出会いました。
そしてその同じ本に「神は、愛されることはあっても、愛することはない」というプラトンの言葉を知りました。
この2つの言葉はさまざまな示唆に富んでいますので、もう少しきちんと書きたいと思いますが、今日は「愛されること」と「愛すること」の関係です。

節子に会った頃、節子に「私は愛されることには全く興味がない、私にとって意味のあるのは愛することだ」と、いかにも気障っぽいことを言ったのを思い出します。
まあよく言ったものだと思いますが、この考えは大学生の頃から今日まで持ち続けています。
私の生き方は、前にどこかで書きましたが、「自動詞」が基軸なのです。
つまり「わがまま」と言ってもいいでしょう。
これは、自信のない弱さの現われかもしれません。
他動詞で生きることは、関係性の中で生きることですが、自動詞で生きることは自分でほどほどに完結できるのです。
たとえば、愛されるという他動詞の不安定さに比べて、愛するという自動詞は自分が主役になれますから、安定させやすいのです。

これは理屈の話であって、現実は必ずしもそうでないことは、30代以降、いろいろと体験しています。
そして「関係性」を主軸に生きるようになったのが30年ほど前からです。
しかし、「愛される」と「愛する」だったら、今でも後者を重視する生き方をしています。

ところで、私がどのくらい節子を愛していたかはわかりますが、節子が私をどのくらい愛していたかはわかりません。
正直に言えば、もう少し愛してほしいなと思ったことは何回かあります。
時に節子は「つれなかった」からです。
私が「もう少し愛してほしいね」というと、節子はいつも笑いながら、「考えておくわ」と応えました。

上記の2つの言葉が出てきた本は里見実さんの「『被抑圧者の教育学』を読む」ですが、その本で里見さんはこう書いています。

私たちの社会で非常に重要視されるのは「愛される能力」であって、「愛する能力」ではありません。能力があったり、美しかったりすると、その人は「愛される」。ある人なり、モノなり、観念なりが備えているメリットが、愛という作用を誘発する、つまり、愛は愛の対象の価値に由来するもの、それによって発生するものである、と考えるのが、私たちの通常の「愛」の観念なのではないでしょうか。
そして、この場合の愛は「所有」への欲求と密接に結びついているというのです。
これは、私が考える「愛」ではありません。
おそらく里見さんが考えている「愛」でもないでしょう。

「愛される生き方」をしたいのか、「愛する生き方」をしたいのかで、人の人生は変わります。
平安な一生を望むのであれば、「愛される生き方」がいいでしょう。
しかし、納得した生き方をしたいのなら「愛する生き方」です。
その場合、愛する相手が突然にいなくなるとどうなるか。
それはまた改めて書くことにします。

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