■川と暮らしの距離
2日間、NPO法人新潟水辺の会が主催した、信濃川大河塾ツアーに参加しました。
信濃川および千曲川、さらにその上流の犀川につくられた7つのダムとそれによって無水状況や減水状況が発生している河川の現状を見るのが目的でした。
学生を対象にしたツアーでしたが、実際にはシニア大学の学生も多く、20代から80代まで、参加者は多様でした。
しかも全工程、河川工学の良心的な権威でもある新潟大学名誉教授の大熊さんはじめ、さまざまな専門家が同行し、レクチャや現地の解説をしてくれました。
まあとても贅沢なツアーなのです。
たくさんの発見がありましたが、私たちの暮らしがリアルな現場世界から切り離されていることを改めて思い知らされました。
そうした状況の中で、いくら環境が大切だとか持続可能性を考えなければとか、いっていても問題は解決しないような気がします。
たとえば、今回、ダムの見学に便宜を図ってくれた東京電力の説明資料に「川はいのちの源」と書かれていました。
事実、東電はダムにたまる膨大な生活ごみをていねいに除去し、それをリサイクルしていました。
ダムの現場で汗を流しながら、働いている人たちは実際にそんな思いで川の汚れをなくそうと日々努力しています。
ですから「川はいのちの源」と東電の関係者は思っていることは間違いないのです。
しかしその一方で、発電のために川からダムに取水するために、ダムの下流はかなりの長い距離に渡って無水状況が生じます。
水はたまっていますが、流れてはいませんから、暑さで水温は上昇し、そこに生息している魚などの生物は生きていけません。
比較的大きなダムの下の淀んだ水に、鯉あるいはブラックバスが泳いでいましたが、この夏の暑さではいつまで生存可能か心配です。
しかし、ダムの制御は個々のダム現場を離れた中央制御室で行なわれています。
今では多くのダムは無人なのです。
制御盤を見ているだけでは現場の生き物は見えてきません。
つまり、言葉や理念としての「川はいのちの源」といのちに無頓着な行動とは東電の人たちには何の違和感もないのです。
それは東電の人たちに限りません。
ダムが川をダメにしていると思ったという若者に、そのダムと自分の暮らしのつながりは感じましたかと聞いたら、即座に感じなかったと答えました。
そこには企業で働く人たちと同じ発想の構造があるのです。
千曲川はまだ流れていましたが、犀川はところどころが流れが切れているのです。
同行した若者は「川の死体」と表現しましたが、たしかに「川は生きている」などとはとてもいえません。
しかし、生きていないのは川だけではないのです。
その涸れた河川には人の暮らしのにおいが全くしないのです。
無水の川は無人の川でもありました。
魚もいない死んだ川には人は寄り付かないのは当然ですが、昔は流域に住む人たちの暮らしを支えていた川に背を向けた現代人を感じました。
川に支えられていた文化もまた死んでしまったのです。
いささか極端ですが、河川が死んでも私たちは生きていけるようになってしまったのです。
川を殺したのは、電力に依存する生き方をしている私たちです。
現場を見る前は、私はダムをつくり川の水を可能な限り収奪した企業や経済に不信感を持っていました。
しかし今回現場を見て思ったのは、結局は私たちの生き方なのだと改めて気づいたのです。
その認識がない限り、問題は解決しないのではないかと思ったとたんに疲れがどっと出てきました。
敵は本能寺にではなく、自らの中にいたのです。
こんな感想を書くと、このツアーを企画した水辺の会の人たちには怒られそうですが、そこから出発しないといけないのではないかと、今回は珍しく謙虚になりました。
環境問題ほど悩ましい問題は、私にはありません。
地球温暖化などと訳のわからないことウィ馬NPOに、まずは自分の生き方を見直したいと痛感しました。
そのせいか、元気がなかなか出てきません。
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