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2010/08/31

■節子への挽歌1094:時間の記憶

節子
この1週間は私にはあまりに重い1週間です。
昨年はこんなではなかったのではないかという気もしますが、それを確かめる気にはなりません。
人には「場所の記憶」とともに、「時間の記憶」もあるようです。
この季節になると心身が動かなくなるといえば大げさですか、そんな気がします。
節子は暑い中をがんばりました。
家族のために、私のために。

5年前までの私の「夏の思い出」はまぶしい太陽の下で節子と一緒に泳いだ海でした。
その「記憶」は、今も私の頭の中にしっかりと残っています。
さまざまな小さなことまで思い出されます。
しかしその記憶はどこか白々しくもあります。
心が動かないのです。

その一方で、暑さの夏にもかかわらず、「寒々とした暗い夜」が心に浮かびます。
音だけの花火、寒いほどの暑さ、声のない静寂、汗を拭く節子。
そして、そこに居るのは、節子に寄り添えていない自分なのです。
なぜもっと節子を抱きしめてやらなかったのか。
なぜ治るなどと確信していたのか。
それを思い出すだけで、心身が動かなくなるのです。
この季節は、私にはとても辛い時期なのです。

意識しているわけではありません。
この季節になると自然と心が穏やかではなくなるのです。
不安、後悔、恥辱、怒り、悲しさ、さまざまなマイナス感情が心身を揺さぶります。
8月末になると、自然とそうした感情が高まってきます。

場所の記憶は避けることができます。
そこに行かなければ思い出さずにすむからです。
しかし、時間はそうはいきません。
どこにいようと、その時間はやってきます。
季節は、そのためにあるのかもしれないと思うほどです。

節子を見送った季節は、私の心身に深く深く刻まれています。
この季節を乗り越えることもまた、節子に再会できる試練の一つなのかもしれません。

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