■節子への挽歌1124:気遣うことに意味がある
節子
岡山の友澤さんと久しぶりに電話で話しました。
友澤さんはもう20年以上前に、節子と一緒に海外旅行に行った仲間です。
その時一緒に行った人たちのグループはとても仲が良く、その後は家族ぐるみのお付き合いになっています。
節子がいなくなってからも、2回もみなさんでわが家にまで花を供えに来てくれました。
しかし、みんなそれぞれに歳をとっていきます。
病気になったりして、次第に電話でもそんな話が増えてきています。
今年はお一人からちょっと連絡がないのがずっと気になっています。
節子がいたら、すぐに電話をするのでしょうが、わざわざ電話するのもどうかなと思いながら気になっています。
節子の友人だけではありません。
私の友人にしても、最近は連絡がないなと時々気づく人がいます。
よほど親しければ電話しますが、何やら電話するのもちょっと大仰かなとも思い、そのうち忘れてしまうのですが、だんだんそういう人が増えてきました。
私自身が歳をとっているのだから仕方がありません。
私が気にしているように、もしかしたら相手も私のことを気にしているかもしれません。
心に思い出す人がいたとして、その人に「最近どうしていますか」などと手紙を書くのも、この歳になると無粋なのかもしれないという気もします。
そもそも気にしているなどと伝えること自体が、よけいなことなのかもしれません。
相手が知ろうが知るまいが、気になったら気にすればいいだけの話なのです。
つまり実際にその人に、心配していたよ、などという必要はないのです。
心配することに意味があるのであって、心配していたことを伝えることに意味があるわけではないからです。
節子に対する思いもそうかもしれません。
節子に会えなくても、節子に伝わらなくても、こうやって節子への思いを書き続けることに意味があるのです。
そう思うと、少し気分が軽くなります。
それでも時々、こうして私が毎日書いているのを節子は知ってくれているだろうかと思うこともあるのです。
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