■節子への挽歌1111:一人で老いることのさびしさ
節子
チビ太は、甲状腺ホルモンが過剰に出て、自らの老いに気づかずに過剰に元気である可能性があるそうです。
そうすると何が不都合かと言うと、気力が体力を上回るので、体力的には無理が蓄積するのだそうです。
そして突然、破綻するわけです。
チビ太がそうであるかどうかは、まだ確実ではないのですが、この話は私自身の話でもありそうです。
佐藤さんは若いですね、と言われることがあります。
確かに、気分的には私は「老い」はあまり感じません。
そしてついついがんばってしまって、身体的な疲労にどっと襲われることがあります。
もし節子がいたらどうでしょうか。
たぶんもう少し自分の老いを日常的に実感できるはずです。
しかし、老いを気づかせてくれる人がいなくなったいま、なかなか自分の老いには気づきません。
もしかしたら私も甲状腺ホルモンが過剰に出ている病気かもしれません。
いや、場合によっては、痴呆が進み、自分の歳を勘違いしている可能性もあります。
なにしろだれも諭してくれないのですから。
まあいずれにしろ、人はなかなか自らの老いに気づきません。
豊かに老いた夫婦には憧れがありますが、孤独の老いは認めたくもありません。
ですから、ますます自分の老いには気づかないわけです。
でも、自らの老いに気づかないことは幸せなことなのかどうか。
幸せそうに寝ているくせに、時々起き上がって来客に吠えるチビ太を見ていると、そこに自分がいるような気がしてなりません。
節子がいたら、こんなことにはならなかったのでしょうが。
一人で老いるよりも、やはり夫婦で老いたかったと、つくづく思います。
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