■節子への挽歌1114:抜け殻のような人生
節子
今日からお盆の入りです。
お墓もにぎわっていました。
テレビを見ていたら、三連休だったことに気づきました。
節子がいなくなってからは、連休という概念は私からはまったくなくなりました。
ともかく毎日が休みなのです。
といっても、自宅で休んでいるというわけではありません。
土日も含めて出かけることは多いですが、気分的にはどうも「休み」という感覚が強いのです。
正確に言えば、「人生を休んでいる」という感じです。
今日も大相撲をテレビで見ながら、節子がいた頃はこんなゆったりした時間が取れただろうかと思っていました。
いつも何かをやらなければという、いささか追い立てられるような生き方をしていたような気もします。
そういう生き方が好きだったのです。
節子はいつもそんな私を、もっとゆっくりしたらと言いながら、
でも修には趣味がないから仕事が楽しいのよね、と笑っていました。
趣味がないといわれるととても心外なのですが、特定のことに集中することが私には出来ません。
ですから趣味がないといわれれば、そうかもしれません。
それに、いろんな人が持ち込んでくる課題は、一種の謎解きの面白さがありました。
だから次々と目移りしながら、いろんなことに関わってきました。
そんな生き方をなかなか変えられずに、節子とのゆっくりした時間もなかなかとれませんでした。
節子とゆっくりとするのは、節子が病気になってからです。
なんとまあ貧しい生き方をしていたことか。
節子がいなければ、本当に貧しい生き方でした。
その貧しさを救ってくれていたのが、節子だったのです。
節子は、私の生活にさまざまな豊かさを与えてくれたのです。
その節子がいなくなった。
自分の人生の貧しさがよく見えてきました。
節子がいればこその、私の人生だったのです。
人生を休みたくなるのも仕方がありません。
この虚しさから抜け出る日は来るのでしょうか。
節子のいない人生が、抜け殻のような気がすることが少なくありません。
こんな気分になったのは、お彼岸のせいなのでしょうか。
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