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2010/09/18

■新成長戦略・新しい公共の欺瞞性

菅内閣がスタートしました。
私自身は、底に日本の不幸を感じますし、まあ1年も持つまいと思いますが、政治に関する私の見通しはいつもはずれますので、小泉内閣のように永続きするかもしれません。
小泉内閣と同じく、アメリカと財界と官僚にやさしく、しかも国民の身にあった政権のようですので。

しかし、どうしても違和感を拭えないことがいくつかあります。
その一つが、「新成長戦略」です。
これは、「新しい『成長戦略』」なのか、「新しい『成長』戦略」なのか、どちらなのでしょうか。
どう違うのかいうと、前者はこれまでとは違った『成長戦略』、つまり戦術を変えるということですが、後者は『成長』という概念を一新することです。
と言っても、20世紀末に苦肉の策として打ち出された「持続可能な成長」のように、概念内容のパラダイム転換は行わずに、言葉だけでのマジックショーのような事例もありますので、注意しなければいけません。

これまでのところ、私には「新成長戦略」の内容が理解できませんので、何ともいえませんが、どうもまやかしのように考えます。
それにこのブログやホームページ(CWSコモンズ)のほうで時々指摘しているように、たとえば、福祉や環境の分野が成長分野だという発想は、これまでの産業パラダイムの延長でしかありません。
どこが新しいのかと問いたいところです。

私は民主党が盛んに使う「新しい公共」もまやかしだと思えてなりません。
ともかく安直に「新しい」などと言う形容詞をつけるのはごまかし以外の何ものでもありません。
新しい酒は新しい皮袋に入れなければ、古い酒になってしまうのです。
言葉は実体と深くつながっています。
「新しい」という言葉ですますのは、まさにこれまでの消費経済の発想です。
装いを変えて同じ中身の商品を高く売る、そろそろそうした安直な発想から抜け出て、本来的な意味でのイノベーションを進めなければいけません。

私は基本的に「成長」ということ自体を問いただす時期に来ていると思っていますが、雇用第一、だから経済成長が必要だという発想には、なんの新しさも感じません。
問題の設定が違うように思えてなりません。
雇用されなくても、いくらでも生きていける道はあります。
新しい公共などといわなくても、共に支え合う生き方はいくらでもできるのです。

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