■節子への挽歌1107:癒しの渇望に覆われた人生
節子
先日巣立ったヒヨドリたちは最近いなくなってしまいました。
やはりあれは節子だったのでしょうか。
ヒヨドリと同じ時期に意識不明になったチビ太は元気になって、また吠え出しました。
節子の命日に前後した、わが家の騒動も終わってしまいました。
騒動はあると大変ですが、なくなってしまうとさびしくもあります。
最近、節子をなぜかとても身近に感じます。
節子ともう会えないという実感が、いまだもってないことも、改めて実感しています。
不思議というか、これこそが生命の自己防衛機制なのでしょうか。
写真を見ていると、今にも節子が飛び出してくるのではないかと思えるほどです。
生活を共にしていたということは、そういうことなのでしょう。
親しい先輩を少し前に見送った若い女性から、
「時が癒すということはないと思っています」
というメールが来ました。
癒すのは決して「時」などではありません。
私は最近、もし私が癒されているとしたら、癒してくれているのは節子なのだと思えるようになってきました。
しかし、これはいささか微妙な話で、癒すとはなんだろうかという問題にもつながります。
節子の写真を見ながら涙を出すことが、もしかしたら癒しかもしれません。
つまり、悲しさや寂しさの渦中に自らを置くことが癒しなのです。
「癒し」そのものが、癒しと言うわけです。
癒しの渇望に覆われた人生。
それも一人では背負い難いほどの大きな癒しへの渇望。
もしかしたら、それこそが節子の私への贈り物だったのかもしれません。
だとしたら、簡単に癒されるわけにはいきません。
癒されない人生も、また豊かなものなのです。
最近、そんな心境になっています。
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