■節子への挽歌1120:死が不幸なことなのか
お盆の明けは雨も上がり、いい天気になりました。
庭の彼岸花も賑やかに咲き出しています。
彼岸だったせいか、このところ、湯島に来る人たちと「死」が話題になることが3回ほどありました。
最初はナラティブサロンでした。
前に書いたように、沖縄出身の神里さんが、「沖縄では死は別に不幸なことではなく、自然にまわってくるものだと受け容れられている」というような話をしてくれました。
「死は不幸なことではない」と言っている佐久間さんのことを思い出して、「身内に不幸があった」と言うような表現をしますか、と訊いたところ、彼女は沖縄では聞いた記憶がないというのです。
その会話を聞いていた、岐阜出身の小澤さんも、岐阜でもそういう言い方はしていなかった、東京に来てからそういう表現に触れた」と話してくれました。
別の機会にそれを思い出して、長野出身の人に聴いたら、長野ではそういう表現があるそうです。
まあ3人だけから聞いた話なので、どこまで一般化できるかはわかりませんが、小澤さんはそういう表現は都市の言葉、あるいは都市化の影響で生まれた言葉ではないかと言うのです。
そういわれると奇妙に納得できる気がします。
群馬で半分を暮らしている哲学者の内山さんは1960年代頃から日本人はキツネと話せなくなったという主旨の本を書いています。
これも実に納得できます。
幸いに私は、その前に子ども時代を過ごしていたので、辛うじてキツネと話す世界に馴染んでいました。
キツネに限りませんが、人間以外の動物たちにとって、死は決して不幸なことではないでしょう。
なによりも「死」という概念がないように思います。
もちろん死に直面した仲間や子どもたちを救おうとする動物の行為はあります。
しかしそれは、死を防ぐのではなく、生を全うさせようとしているというべきでしょう。
死を意識できる人間にとって、たとえば幼い子どもを見送ることはたしかに「不幸」です。
しかし、それは生命を断絶することの不幸であって、死一般ではないでしょう。
このあたりは、もう少しきちんと整理しなければいけませんが、死そのものを「不幸」と一括して表現してしまうことにはやはり違和感があります。
一昨日、佐久間さんと会って、この話を少ししましたが、もう少しきちんとすればよかったと思います。
死が不幸なことなのかどうか、これは私たちの生き方そのものにつながる問題です。
今年も彼岸が終わりました。
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