■節子への挽歌1101:人が一人欠けると社会は変わっていく
節子
節子の命日の前後に、節子の友人何人かと直接、あるいは電話で、話す機会がありました。
節子がいなくなってからの恒例行事です。
元気そうになりましたね、という人もいれば、相変わらず泣いているのでしょうと冗談を言う人もいます。
でもみんなこの時期になると節子のことを思い出してくれるのです。
感謝しなければいけません。
節子の友人たちもみんなそれぞれに高齢になってきました。
ですからいろんなことがあります。
訃報もないわけではありません。
伴侶が病気になって、という話もあります。
そういう話がこれからますます増えていくのでしょう。
みんなから一様に言われるのは、きちんと健康診断を受けてくださいよということです。
私はあんまり健康診断が好きではありません。
日本の病院そのものがそうですが、健康診断に行くと自分が家畜のような気がしてとてもいやなのです。
はい、バリウムを飲んで、息を大きく吸って、はいて、・・・。
これが私にはとても苦痛です。
節子が元気だった頃は、それでも節子のために健康でいなければという気がありましたから、いやいやながら健康診断に行きましたが、今はその気も消えてしまいました。
それに、健康診断で悪いところが見つかったとして、だからどうだとも思います。
早期発見なら対処できるといいますが、病気を治したところで、余生にそれほど意味があるわけではありません。
なにしろもう節子はいないのですから。
今回、とても気になっていることがあります。
いつもなら来てくれるか電話をしてくるはずの人から連絡がないのです。
私の友人ではなく、節子の友人ですから、こちらから電話するのもはばかります。
でもこうやって人のつながりは消えていくのかなと思うこともあります。
人が一人欠けると社会は変わっていくものであることがよくわかります。
自分では意識しなくても、老いは確実に生活を変えていくようです。
| 固定リンク
「妻への挽歌06」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1200:節子がいない不幸(2010.12.15)
- ■節子への挽歌1199:柳原和子さんに何かあったのでしょうか(2010.12.14)
- ■節子への挽歌1198:私の仕事好きが節子は不満でした(2010.12.13)
- ■節子への挽歌1197:解けない難問(2010.12.12)
コメント