■節子への挽歌1110:弱みと信頼関係
節子
昨夜は朝から来客続きで、夜までパソコンに向かう時間がありませんでした。
帰宅後、挽歌を書こうと思ったのですが、昼間の話題がかなり重い話が多かったこともあり、パソコンに向かう気がせず、早く寝てしまいました。
それで挽歌はお休みしてしまいました。
といっても、節子を意識した時間がなかったわけではありません。
私がアドバイザーとして関わっている企業の経営幹部の人たちのグループとのミーティングの後、みんなで食事に行ったのですが、いろんな話で盛り上がった後、突然に、Sさんが「Fさんが涙が出てしまったというので、私も読みました」というのです。
何の話かと思ったら、この挽歌のことでした。
私のホームページにリンクされていますので、挽歌を読む人もいるわけです。
この挽歌には、私の生活やら本性が露出されていますので、それを読むとどう感ずるでしょうか。
こんな人に仕事を頼んで大丈夫かと不安になるかもしれません。
正式のミーティングでの私の発言への信頼感が薄れるかもしれません。
自らをさらけだすことのマイナスは少なくないかもしれません。
しかしおそらくプラスもあります。
昨日の昼間のミーティングでも話題にしたのですが、コミュニケーションの出発点は自らの弱みを見せることです。
弱みを見せる、言い換えれば自らの人間性を露出し共有することで、相互に信頼関係が生まれることもあるのです。
しかも、弱みを見せてしまった後は、自らを着飾ることは無意味になります。
そうなると実に生きやすい環境が育ってくるのです。
それを好まない人も、もちろんいます。
そういう人からは見下されるかもしれません。
しかし、それは自らに弱みがあるのですから、甘んじて受け入れなければいけません。
それに、そういう人とはもともと人間的な関係は構築できないので、見下されたところでなんの不都合もありません。
そもそも見下されているのですから(見下すと見上げるは同じことだと思っています)。
人生を豊かにするとは何なのか。
弱みを共有できる人のつながりをどのくらい持てるかではないかと思います。
節子は私の弱みをすべて知っていました。
だからこそ、私は節子を信頼し、節子もまた私を信頼していたわけです。
ビジネス(極めて論理的な世界といえるでしょう)を再開したいま、この挽歌はかなり私には気恥ずかしい部分ではあります。
しかし、その弱みを隠さずにできるビジネスもあるでしょう。
それに、ビジネスそれ自体が、論理一辺倒の世界からそろそろ変わっていくべき時期ではないかとも思っています。
今日はいささか理屈っぽい挽歌になってしまいました。
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