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2010/09/01

■節子への挽歌1095:人生の起承転結

節子
制作映像に関わっている小澤さんとゆっくり話しました。
小澤さんとは数か月前にコミュニケーションをテーマにした集まりで知り合いました。
私たちをつなげたのは、ナラティブ、物語です。
私はコミュニケーションとは物語づくりだと考えていますが、小澤さんのライフワークもどうやら「ナラティブ」につながっているようです。
みんなと一緒の集まりではなかなかゆっくり話せないので、今日は2人でお話させてもらいました。
テーマはもちろん「物語」です。

節子がいたら証言してくれるでしょうが、私は「物語」が好きです。
学生の頃から物語的な生き方を志向していました。
というとなにやら「つくられた人生」というような誤解を受けそうですが、そうではなく、自然に生きている自分を意識しながら生きてきたということです。
オルテガの「私は、私と私の環境である」という言葉を以前書いたことがありますが、まさにその生き方が学生の頃からの私の生き方でした。
つまり「2人の私」がいるのです。

環境を含めた私はプロデューサーです。
その私は、人生にも起承転結が必要だと思っており、47歳の時に私の物語を「転」じたつもりでした
その転じ方はそれなりにドラマティックで友人たちからは驚かれたほどですが、実はそれは私の人生にとっての「転」ではなかったのです。
それよりももっと大きな「転」が起こったからです。
節子との別れです。
伴侶を失うことは、それまで営々と築き上げてきた物語を一変させます。
自分で考えた小賢しい「転」とは違い、まさにそれは「2人の私」のいずれをも変質させる「転」でした。
そこから私の人生はまったく操作不能になり、改めて理性の小賢しさを思い知らされました。

今日、小澤さんと話していて、やっとそのことに気づきました。
そして、私にはまだ「結」の物語が残されていることにも気づきました。
昨日までは、いまは起承転結の結を生きていると思っていましたが、実際には「転」の時期だったのです。

人生の転機は、自分ではつくれないのです。
与えられるから転機なのです。
私の物語を、どう「結」するべきか、これは節子が残してくれた、私の「生きる意味」かもしれません。
もうしばらく「私の物語」は終わらないようです。
結の生き方を考え出さなければいけないようです。

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