■節子への挽歌1155:先が見える幸せ、先が見えない幸せ
節子の病気が再発した年のわが家の標語は「希望」でした。
昨日、先は見るものではなく創るものと書いた後で思い出したことがあります。
希望学に取り組んでいる玄田有史さんが、書いていた言葉です。
先が全く見えてこないと希望が持てないが、先が見えすぎると希望は失われる。
たしかそんな言葉でした。
実際の意識調査の結果、たどりついたことだったと思います。
言い方を変えれば、「先が見える幸せ」と「先が見えない幸せ」があるということです。
いつか「余命○○年」という言葉について書いたことがありますが、人によっては「余命期間」がわかったほうがいいと言う人もいるでしょう。
そのほうが、充実した時間を過ごせるとも考えられるからです。
しかし私はその考えには賛成できません。
人智をいくら尽くしても、余命期間などわかるはずがない、それが生命だと思うからです。
勝手に決めることは生命への冒涜に感じます。
人は必ず死を迎えます。
その意味では、だれもが先が見えているわけです。
しかし、それがいつ来るのかわからないのが生命です。
それを知って、どうしようというのか。
手塚治虫の「ブッダ」には、自らの死期が見えるアッサジという人物が出てきます。
彼は、その死に方までが見えるのです。
彼の場合は、野獣に食べられる死に方でした。
しかし、死ぬ前日でさえ彼の日常生活は全く変わりません。
なぜならば、彼にとっての「死」は大きな意味での「生」の一部でしかないからです。
つまり、死と生の壁を越してしまえば、つまり「大きな生」に気づけば、余命という概念は無意味になるのかもしれません。
いまその時をしっかりと生きる。
それが「生の意味」なのです。
問題は、先が見えるか見えないかではありません。
今が見えるか見えないかです。
昨日の挽歌を書きながら、気づいたことです。
挽歌を書き続けていると、いろいろなことが見えてきます。
節子のおかげだと感謝しています。
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