■弱いものいじめの強制起訴
小沢さんが強制起訴されました。
そのニュースを聴いて、元気がなくなってしまいました。
たった11人の市民によって、国の将来が決められてしまったような気がします。
ひどい制度です。
日本には、推定無罪(何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される)という言葉はありますが、日本人にはその感覚はほとんどありません。
一度、検察や警察に疑われた途端に、無罪かどうかはともかく、社会的には致命的な打撃を受けます。
つまり日本の裁判は付随的な存在でしかありません。
私たち国民は、そうした文化にどっぷりつかっています。
そこに冤罪の生まれる素地があります。
それは、子どもから大人まであらゆるところで起こっている「いじめ」の素地でもあります。
その素地を固めるのは司法への「市民参加」ではないかと私は思っています。
批判するのと裁くのとは、まったく異質なものです、
裁くのは「権力に基づく行為」だからです。
人を裁くことの難しさを知らない人の恐ろしさを感じます。
私はささやかですが、いくつかの自治体のまちづくりに関するプロジェクトに関わらせてもらってきました。
そこで実感したのは、「住民参加」というアリバイ工作手法です。
協働のマネジメントという名前に変えても、事態は変わりません。
どういう人を参加させるか、その人たちにどうプレゼンテーションするかで、方向はいかようにも変えられます。
私には実に姑息な手段に思われます。
私が最近の司法改革に反対しているのも、その体験がベースです。
いまこの時期に何が大切なのか。
そういう全体の構図や展望がないままに個別の問題が、それもわかりやすい問題が話題の中心になっている世相を憂います。
その先に不安を感じます。
小沢さんに問題がないとは思わないのですが、いかにも小さな事件です。
みんなが口では嫌っている「政局」騒ぎでしかありません。
政策遂行はまた遅れていきます。
しかし私たち生活者には、数億円の金額の世界しか見えないものです。
お金と無縁の生活を送っている生活者にとっては、仕方がないことかもしれません。
しかし数億円のお金の手続き問題に国民の目を向けさせておく一方で、兆円単位のお金やそれ以上に大切なものが失われているかもしれません。
いや、それを奪うために、瑣末な事件に目を向けさせているとしか、私には思えません。
そうして私たちは数度の戦争を体験しました。
いずれにしろ、大きな問題は見えなくなっているのです。
検察の問題が出てきていますが、これも大きすぎて表層でしか語られていません。
前田さんも大坪さんも、単なるスケープゴートでしょう。
個人の問題などでは談じてないはずです。
村木事件のフロッピー改ざんという瑣末な事象が話題にされていますが、それを批判している人たちにこそ大きな問題があることを忘れてはなりません。
悪人ほど善人の顔をしているといわれますが、それは本当かもしれないと思いたくなります。
時代の変わり目には、やはり慧眼をもった人が必要なような気がしてきました。
しかし私が生きているうちには、そうした人は現れないでしょう。
そう思うと、元気が萎えてしまいました。
元気を出して、書いてみました。
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