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2010/10/23

■節子への挽歌1147:挽歌は元気を引き起こすもの

昨日、挽歌の読者から、「佐藤さんの元気の無いブログを読んでいると、酷く落ち込みます」というメールが来ました。
その方も私と同じで伴侶を亡くされたのです。
「佐藤さんの哀しみも、私の哀しみです」とも書いてきています。

この挽歌が、もしだれかを落ち込ませているとしたら、それは私の本意ではありません。
私がそうであるように、この挽歌は人に元気を与えるものでありたいと思っています。
内容が内容ですから、哀しいものや寂しいものがあるかもしれません。
しかし、書き手の私は、その哀しさや寂しさを書きながら、元気を得ています。
哀しさや辛さ、寂しさや悔しさは、決して元気を否定するものではありません。
こう考えるのは、私だけなのかもしれませんが、嬉し涙と哀し涙があるように、嬉し元気と哀し元気もあるような気がします。

「元気が出てこない」と書くことも少なくないのですが、実はその時でさえ、書くことによって元気をもらえます。
「元気がない」と言葉にすることで、元気が得られるというのは、普通は逆だと思われるかもしれません。
よく言われるように、言葉が漠然とした空気を意識化することは事実です。
しかし、状況の意識化は時に逆の効果をもたらします。

節子がいた頃、私はよく「大変だ」「不安だ」などと口に出しました。
自分の限界を超えるほどのたくさんの「重荷」を背負ったことは少なくなかったのです。
しかし、口に出すだけで、大変さは大変でなくなり、不安は解消されたのです。
ちょうど、忙しいと言うと、暇なことへの不安が解消されるのと同じです。
私の体験では、「忙しい」と言う人はみんな暇です。

「元気がない」という言葉は、本当に元気がない時には、絶対に出てこない言葉です。
悲しいとか寂しいとかいう言葉もそうです。
その言葉を発すると、同情してくれる人が出てくるかもしれない。
そうなると少しだけ安堵する。
それが私の体験であり、私の生き方です。

素直に自らの気持ちを言動で現すと、人生はとても生きやすくなります。
節子がいなくなってもなお、私が崩れずにいられるのは、この生き方のおかげかもしれません。

繰り返しますが、この挽歌が、もしだれかを落ち込ませているとしたら、それは私の本意ではありません。
挽歌はたぶん生きるものへの元気を与えるものなのです。
もちろん挽歌が贈られている詩者にも、ですが。

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