■節子への挽歌1132:別れの悲しさ
昨日の挽歌を書いてから、別れの悲しさには2つあるような気がしてきました。
意図的な別れと意図せざる別れです。
あるいは、人との別れと思いとの別れです。
私にとっては、伴侶との別れほど深い悲しみはありませんが、別れなくてもいいのに自らの判断で別れる人もいます。
そういう人は、伴侶との別れといっても、私の場合とはまったく違うでしょう。
その人の別れの悲しさは、もしかしたら「その人の愛の思い」との別れかもしれません。
私には、愛する人(物や自然でも同じなのですが)への愛が終わるということが理解できませんが、愛が憎しみに変わる話は古今東西たくさん語られていますから、そういうこともあるのでしょう。
節子との別れを知ったある人は、私に「自由になってよかったと思ったらどうですか」といいました。
それなりに注目されている社会活動をしている人です。
私自身がまだ十分に立ち直れていない時だったので、心の傷は深く、今も忘れられません。
しかし、自由を損なうような愛があるとは、私には思えません。
愛する人がいればこそ、自由を謳歌できるというのが、私の考えであり、体験です。
意図に反して自由を束縛されるような愛であれば、それとの別れも考えられます。
しかし、それを「愛」というかどうかは私にはわかりません。
私にとって、節子との別れは意図せざるものでした。
だから奈落に落ち込むほどの哀しさに襲われたのです。
しかしその一方で、思いとの別れは起きませんでした。
節子への愛は、未来永劫変わらないでしょう。
それが私の悲しみを反転させたといってもいいかもしれません。
意図して「思い」と別れた人は、「人」との別れも同時に起こります。
それはあまりにもむごいことで、優しさに気づけないかもしれません。
こう考えてくると、私の悲しみなど、取り立てて言うほどのこともないかもしれません、
にもかかわらず、なぜこれほどに、いまも節子に会いたいと思うのでしょうか。
思いと人は、やはり切り離せない存在なのです。
それについて書き出すと、また際限なく続きそうです。
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