■節子への挽歌1125:生活の芯
節子
今日は朝の6時過ぎに家を出ました。
こんなに早く家を出るのは久しぶりです。
熊谷の合宿会場に朝一番で着くためです。
本当はゆっくりしたかったのですが、いろいろと用事が重なって、こんなハードな行動になってしまいました。
思い出せば、節子が元気だった頃は、こんな生活が多く、私は飛び回っていた感じです。
節子が病気になってからは、そうした生活はやめましたが、節子がいなくなってからは、さらにそうした生活ではなくなりました。
時間をもてあますほど、ゆっくりした生活になったのです。
しかし最近また、さまざまな活動に関わりだしています。
以前ほどではありませんが、一見、つながりのない話題の間を行き交いだしています。
人にたくさん会います。
私が何をしているのか理解できない人も少なくないようです。
外から見たらまったくランダムに生きているように見えるかもしれません、
しかし、そうしたさまざまな分野の活動も、私の中ではしっかりとつながっていました。
つないでくれていたのは、節子との時間だったのです。
つまり「自分たちの生活の視点」です。
私たちは、さまざまな問題に絡まりながら生きています。
生活の視点で見ると、一見無関係に見える話がつながってくるのです。
私が、問題から発想せずに、生活から発想する視点をもてたのは、節子がいたおかげだと思っています。
私自身の生き方を、つねに具体的に、体験的に、感じられたからです。
それにどんなテーマも、節子と話し合いながら生活の視点で反芻できたのです。
しかし、節子がいないいま、どうも自分の生活が見えなくなってきました。
相変わらずさまざまな分野には関わりたいのですが、どうも問題に埋没してしまい、生活が拡散しそうです。
しっかりと生きるためには、生活の芯がないといけないことを痛感します。
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