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2010/10/22

■奄美大島の大雨

奄美大島の大雨被害の大きさは、もし自分が当事者だったら立ち直れるだろうかというほどのすごさです。
自然のまえには、所詮、人間は小さな存在でしかないのかもしれません。

「日本の伝統的な精神では自然と人間を一体的にとらえている」と内山節さんは言います。
そして、日本における共同体は自然と人間の共同体だというのです。
内山さんの共同体論は、私にはとてもなじめる発想です。

その内山さんはこうも言います。

「自然と人間の間には矛盾も存在している。たとえば日本ではしばしば大雨が降り、それが洪水をも引き起こす。しかし雨量が多いから、水田もつくれるし、作物もよく育つ。森の木が育つのも夏の高温多湿が影響している」。
奄美の大雨被害を見ながらこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、おそらく奄美の人たちは、こうした災厄をもたらす自然とも恵みをもたらす自然とも、豊かに共存してきたのでしょう。
そしてそうしたなかで、自然と話のできる存在になっていたのかもしれません。
奄美や沖縄の人に、どこか霊的なものを感ずるのはそのせいかもしれません。

奄美大島出身の友人にメールをしたら、こんなメールが返ってきました。

私が育ったころは、バラック並みの家屋でしたので、梅雨前線~台風シーズン~秋雨前線と、この間、何度と今回のような体験をしてきました。
島人(しまっちゅ)の知恵が、被害も最小限に留めていると思っております。
本土並みの家屋になって、何十年ぶりかの災害だと思います。
奄美は、今回の災害復興をバネして、又、一層逞しく、生まれ変わってくれると信じております。
「本土並みの家屋になって、何十年ぶりかの災害」というところが、気になりました。
本土の家屋は、決して、自然と会話できる構造にはなっていないからです。
島人の知恵と本土人の知恵と比べたら、どちらがすぐれているのでしょうか。
今回の災害の状況をテレビで見ていて感じたのは、雨風にさらされることの多い奄美大島の家屋が、なぜか本土の家屋と同じように見えたことです。
これは私の考えすぎかもしれませんが、自然とともにある奄美の共同体やそれを支える住まいや集落構造が、人間だけの論理で合理的に設計された世界に置き換えられているのかもしれません。

共同体が自然と人間の合作であるならば、家屋も集落構造もそうでなければいけません。
「本土並みの家屋」はどういう意味を持っているのでしょうか。
奄美の被害映像から、こんなことを考えてしまいました。

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