■節子への挽歌1154:先もなければ過去もないタイムポケット
節子
挽歌を書こうとパソコンに向かったのですが、書き出しの言葉が出てきません。
そう思っていたら、電話がかかってきました。
福井にいる節子のお姉さんからです。
まあ特に用事ではなく、テレビを見ていたら千葉のほうは台風がすごいようなので電話したということでした。
房総半島の南端の館山はだいぶ荒れているようですが、我孫子は静かです。
節子たちは仲の良い姉妹でした。
お互いに生活に余裕も出てきて、これから一緒に旅行などしようと話していた矢先に、節子は病間に襲われたのです。
もし人生の先行きが見えていたら、もっと早い時期から姉妹で一緒に旅行などできたのに、人生はなかなかうまくいきません。
しかし、人生が豊かに成り得るのは、たぶん先が見えないからです。
先のことは全く決めずに辞めましたから、何が起こるかさえわかりませんでした。
しかし、その時は「白紙のキャンパス」に絵を描くような、わくわくした感じをもてました。
時代がまだ、希望に満ちた時代だったのかもしれません。
会社を辞める時、これからはお金から解放されようと決めたのです。
先が見えなくなって収入がゼロになったのに(失業保険ももらいませんでした)、なにかわくわくしたのです。
不思議なことに、その高揚感は、節子にも移ってしまいました。
そのせいか、結婚した頃の気分に戻った感じがして、何をやっても新鮮でした。
先が見えなかったので、どんなことに出会うか、2人して毎日わくわくしたものです。
実に楽しい失業生活でした。
もちろん今も先は見えません。
節子がいなくなって、先の見えなさは高まったはずです。
しかし、いまはわくわくしません。
なぜでしょうか。
「先」は、実は見るものではなく、創るものだったのです。
会社を辞めた時、先が見えなかったのではなく、先を創ることが可能になったから、わくわくしたのです。
いまは、「先」を創ることができなくなってしまった。
なぜそう思うのかわかりませんが、そんな気がします。
人は先を創れなくなると過去に逃げるのかもしれません。
しかし、いまの私には「過去」こそ見たくない世界です。
先もなければ過去もない。
次元のはざまに開いた、タイムポケットに落ち込んだような気がします。
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