■節子への挽歌1129:「もう一度、みんなの食事をつくりたい」
節子がいなくなってから台所に立つことが増えました。
と言っても、料理を作るわけではありません。
私はそうしたことがまったく不得手で、今は娘たちに依存しています。
しかし食器洗いとかをすることは増えました。
一応、食器の自動洗浄機はあるのですが、節子はきちんと手で洗うのが好きだったので、わが家では普段は使わないのです。
その文化は、今も続いています。
台所に立つと思い出す言葉があります。
「もう一度、みんなの食事をつくりたい」
料理をつくれないほどに節子の病状が進展した頃、節子がよく言っていた言葉です。
再発してからも節子は台所に立っていました。
節子はさほど料理好きだったわけではありません。
病気になってからは、なにかと家族に依存する面がでてきたのですが、そうしたなかで家族のために何かをしたいという思いが強まっていったのです。
それができないことは、節子にとってはとても腹立たしかったことでした。
そばにいて、節子のその思いはいたいほど伝わってきました。
最後の1か月の闘病生活は、思い出したくないほどに節子も家族も共に辛いものでしたが、わが家には悲壮感はあまりありませんでした。
それは節子の家族への思いの深さのおかげかもしれません。
今から考えると、ケアされていたのは節子ではなく私だったのかもしれません。
節子が台所に立たなくなってから3年数か月が経ちました。
今日は食器を洗いながら、涙がとまりませんでした。
節子の言葉を思い出してしまったからです。
いつかまた、私のために節子が料理してくれることを確信しています。
まあ節子の料理は、さほどおいしくはないので、味は期待していませんが。
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