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2010/11/23

■節子への挽歌1178:葬儀は種としての人の存在を支えている仕組み

節子
またスランプです。
先週、2人の葬儀に参列して以来、気が抜かれたような気がしてなりません。

葬儀に行って感ずることがありました。
喪主の思いを、たくさんの参列者はわかっているのだろうか、ということです。
私も参列者ですので、その「わかっているだろうか」の対象者になるわけですが、喪主の気持ちなどわかりようもありません。
それを意識してしまうと、お悔やみの言葉さえ出てこなくなりがちです。

私が喪主だった節子の葬儀の時には、そんなことは考えもしませんでした。
現実を理解できないままに、喪主の役割を演じていたような気がします。
そのことを思い出すと、喪主自身も、自分の気持ちや思いにまだ気づいていないといってもいいのかもしれません。
だから葬儀にも出られるのです。
いま思うと、葬儀の2日間をよく無事に過ごせたものだと思います。
今では思い出すことさえ苦痛です。
あの時の私は、尋常ではなかったと思います。

しかし尋常でなかったからこそ、節子との別れを超えられたのかもしれません。
もし私に娘がいなかったら、私は生きる気力を失い、結果的に節子の後を追うことになったでしょう。
そうならなかったことが、私にとってよかったことかどうかはわかりませんが、愛する人を失った人が自らの生を絶つようになったら、種としての人の歴史は危機に直面するでしょう。
人のつながりは「愛のつながり」でもありますから、それが「死の連鎖」を起こしかねないことになります。
つまり「個別の死」は、個別の問題として切り離さないといけないのです。
そう考えると、葬儀とは逝ったものから残されたものを引き離す場なのかもしれません。

節子を見送った時に、たくさんの人が見送りに来てくれました。
しかし、あれは節子を見送ることによって、その世界に引きずり込まれようとしている私を現世に踏みとどまらせるためだったのです。
もちろん参列者がそんなことを意識していたわけではないでしょうが、葬儀の意味はそこにあることに気づきました。

私がいまここにいるのは、葬儀のおかげです。
そして私がいまここにいることで、死の連鎖が起こらずに、人類の歴史が続いていくわけです。
連続していた生命が切り離されて「個別の生」になった「種としての人」が、その当初より(ネアンデルタール人の頃より)、葬儀を営んできたことの意味がやっとわかった気がします。
葬儀は、種としての人の存在を支えている仕組みだったのです。


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