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2010/11/01

■節子への挽歌1156:「2012」

節子
映画「2012」を観ました。
この映画は、マヤの予言として有名な2012年の地球崩壊をテーマにした映画です。
地球崩壊の到来を知った各国政府はすべてが水で覆われる地球で生き残るために、現代版ノアの方舟を秘密裏に製造するのですが、そこに誰が乗るのかというのがテーマです。

方舟には限られた人数しか乗れません。
そういう状況になった時に、私なら乗ることを望むだろうか。
実は子どもの頃、同じような映画がありました。
「地球最後の日」という映画でしたが、その時も同じことを考えたのを思い出します。
私の考えは、極めて限られた人数であれば、乗ることを望まないだろうというものです。
みなさんはどうでしょうか。

映画の中では、いろいろな人が出てきます。
ある人は、巨大津波に飲み込まれる寸前に、これで亡き妻のところに行けると言います。
各国の政府のトップの中にも、国民と共に残るという決断をする人もいます。
お金を出して宇宙船に乗ろうとする人もいます。
映画の主人公役の人は家族を乗せようとするのですが、おそらく私も節子も、そういうことは考えずに、残された時間を静かに家族一緒に過ごす道を選ぶでしょう。

節子がいなくなった後、実に恐ろしい話ですが、私は世界が突如無くなればいいと何回も思ったものです。
マヤでもノストラダムスでもいいから予言が当たればいいとさえ思いました。
もちろん今はそんな考えは全くありませんが、当時は節子だけを送ってしまったということが敗北感として心を覆っていたのです。

いまは、人とは個別の存在ではなく、みんなつながっているという感覚が強まっています。
ですから、地球崩壊という現実の中で意図的に生き残ることへの関心は皆無です。
念のためにいえば、誰かが生き残り、種を存続させる話とは全く別の次元の話です。

脳疲労の割には深い問題を考えてしまいました。

少しずつですが、私にも「生きること」の意味がわかりだしてきたような気がします。
わかった頃にはきっと「生きること」をやめることになるのでしょうか。
節子は、もしかしたら最後の1か月で、こうしたことを直感していたのかもしれません。
なぜかそんな気がしてなりません。
その1か月、なぜもっと節子と会話しなかったのか悔やまれて仕方がありません。
節子は言葉がなかなか出なくなってはいましたが、言葉を使わなくても話せたはずです。
いまさら悔やんでも仕方ありませんが、悔やまれて仕方ないのです。

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