■節子への挽歌1163:常世の一つの姿が「うつし世」
節子
黒岩さんの状況がよくありません。ますます祈らなければいけませんが、祈る時にいつも頭に思うことがあります。
私は此岸、小倉さんの言葉を使えば「うつし世」で祈っています。
節子は彼岸、「常世」で祈っています。
その祈りは、果たしてどういう意味を持っているかです。
つまらないことを気にすると笑われそうですが、とても気になるのです。
節子と一緒に祈ることは、彼岸への道をつくることではないかという気がするのです。
しかし先祖に向かって、子どもたちを温かく見守ってくださいねという祈りもありますから、彼岸の節子も、現世での黒岩さんの元気を願ってくれているはずです。
そう思う一方で、どこか割り切れないものがあるのです。
こんなことを考えているようでは、祈りにはならないかもしれません。
しかし、祈りながら2人の顔が出てくると、迷いが生じます。
そうした時に、昨日の映画で、祈りは彼岸と此岸のつなぎ目にあることを知りました。
そこで気づいたのは、彼岸と此岸はつながっているということです。
だからこそ死者への祈りが成立するのです。
なにやら最近ややこしい話が多いかもしれませんが、私の彼岸観はかなり変わってきました。
彼岸と此岸は別のものではなく、此岸は彼岸に組み込まれているような気がしてきたのです。
こう置き換えるとわかりやすくなるかもしれません。
常世の一つの姿が「うつし世」なのだと。
黒岩さんの平安を深く祈ります。
節子も祈っているでしょう。
その辛さを、節子はよく知っていますから。
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