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2010/11/18

■節子への挽歌1173:生命の価値

節子
黒岩さんの訃報が新聞に載ったこともあって、いろいろな人から電話やメールが来ます。
節子がいなくなってからまったく音信不通だった人からまでメールをもらいました。
なにやら複雑な気分です。
人の死は、やはりちょっと尋常でない状況を生みだすのでしょう。
そこにこそ、生命の大きな価値があるのかもしれません。

もう25年ほど前になりますが、父を見送った時の葬儀で久しく会っていなかった遠戚の人に会いました。
父の葬儀でもなければ会うこともなかったかもしれません。
人は最後に、残されたもののために、さまざまな出会いを作ってくれるのです。
母を見送った時も、節子を見送った時も、同じ体験をしました。
電話をかけてきてくれた一人の人は、黒岩さんの講演会で昔一緒に仕事をした人に出会えた、黒岩さんが引き合わせてくれたんですね、と話してくれました。
そういう出会いもあります。
人との別れは、人との出会いとセットになっているのです。
これも生命の価値かもしれません。

出会いはなにも新しい他者、懐かしい他者との出会いだけではありません。
もう一人の自分との出会い、あるいは忘れていた自分との出会い。
さらには、見えていなかった友人知人の新しい側面との出会いもあります。
そして世界は変わっていくのです。

黒岩さんの訃報を知って1日がたちました。
少しだけ受け入れられるようになってきました。

今日はこれから親戚の若者の葬儀です。
黒岩さんの葬儀と完全に重なってしまいました。
黒岩さんとの別れは、明日にさせてもらいます。
明日は節子と一緒にお別れに行く予定です。
節子と一緒に行動できる、これも生命の価値の一つかもしれません。
おかしな言い方ですが、生命に関わる時には生死はあまり関係ないのかもしれません。

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