■節子への挽歌1167:彼岸との「つながり感」
節子
気持ちのいい秋晴です。
空を見ていると、その青さの向こうに、彼岸が開けているのではないかという気にさせられます。
不思議なのですが、青空の日は明るいつながりを、雨の日は悲しいつながりを感じます。
もちろん「彼岸とのつながり」のことですが。
映画『うつし世の静寂に』をプロデュースした小倉さんが、挽歌を読んで、
「(そのなかに)人が本当に「見えないもの」を信じ、「つながりあう」ためのヒントが秘められているように思われます」
と書いてきてくれました。
見えないものと見えるものと、どちらが信じられるのか、これは人によって違うでしょうが、私はどちらかといえば後者です。
仏教的かもしれませんが、形あるものは崩れやすく、形のないものは崩れることがないからです。
もっとも形のないものをどう見るかは難しい問題です。
形のないものは範囲がなく、その見方によっては如何様にも変化します。
しかし、色即是空の感覚を持てば、見えるかどうかは瑣末なことになっていきます。
大切なのは「つながり感」なのかもしれません。
それが持てれば、心は平安になります。
こころを平安にしたのであれば、信ずるかどうかなどで迷ってはいけません。
すべてを信ずるだけでいいのです。
この頃思うのは、そうした「つながり感」をどれほど持てるかが大切だということです。
孤独とか孤立していると思う人は、疑い深いのかもしれません。
疑い深くなるには、それなりの理由があるのでしょうが、疑いだしたら疑いは際限なく膨らむものです。
節子のおかげで、私はそうした「つながり感」を育てることができました。
悲しく寂しくとも、心が平安になれるのはそのおかげです。
しかし、挽歌の世界を離れて、時評の世界になると心の平安は崩れます。
まだまだ未練がましく生きているのかもしれません。
挽歌と時評は時々クロスしますが、なかなか融合できません。
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