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2010/11/18

■「無縁社会」という言葉を使うのはやめましょう

「無縁社会」と言う書名の本が出版されました。
NHKはどこまでもこの言葉を流行らせたいようです。
また商業主義の流行語大賞などといったおかしなイベントでもこの言葉が話題になるのでしょう。
なんとまあ腹立たしいことか。

11月5日に、みんなが安心して暮らせる「シェルター」を考える公開フォーラムを開催しました。
そのワークショップの最後で、私が話させてもらったことの一部を紹介させてもらいます。

最近、無縁社会という言葉がよく使われるようになりました。
私はそのことをとても残念に思います。
たしかに、一見、無縁社会であるように感じさせる事件は少なくありません。
しかし、本当に無縁社会と言っていいのでしょうか。
言葉は現実を説明すると同時に、新たな現実をつくりだします。
そこに大きな懸念を感じています。

人は一人では生きられません。
見えなくても、気づかなくても、様々なものに支えられて、私たちは生きています。
支えてくれているのは人かもしれないし、花や動物かも、自然かもしれません。
どんなに孤立しているように見えても、私たちは周りに支えられているのです。
そして、同時に私たちの存在そのものが、誰かの役に必ず立っているように思います。

それに気づけば、社会は決して無縁ではありません。
有縁社会、縁でつながっている社会です。
いま必要な事は、改めてそのことを意識することではないかと思います。
マスコミは無縁社会などという言葉ではなく、有縁社会という言葉を流行らせるべきだったと思います。
繰り返しますが、言葉は現実を作り出すのです。

周りにいろいろなつながりがあることに気づけば、それだけで私たちは生きやすくなるのではないかと思います。
人のつながりによってつくられる社会は、決して無縁であるはずはないのです。

みんなが安心して暮らせない社会だからこそ、閉じられたシェルターが必要であり、そういうシェルターをもっと増やしていくことも大切ですが、そんなシェルターがなくてもいいように、社会そのものをシェルターにしていきたいと思います。
今日は、それに向けての一歩だったのではないかと思います。
そして、このワークショップを契機に、参加者一人ひとりが、まずは周りでできることからはじめる、次の一歩を踏み出せればと思っています。

有縁社会の中で、私たち一人ひとりにできることはたくさんあるのです。
「無縁社会」と言う言葉は、それを壊していきかねません。
NHKの無責任さと無知さ加減には腹が立ちます。

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