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2010/11/06

■節子への挽歌1161:決して裏切られることのない希望

節子
昨日、高野山大学でも教鞭をとっている僧侶の方と話しました。
その方が、希望を持つから裏切られるのですと言いました。

ハッと気づきました。
そういえば、仏教では、まず希望=欲望を捨てて、無になれと言います。
キリスト教は希望を説きますが、仏教は希望を説きません。
希望を持てばこそ、裏切られ、また煩悩に振り回されるというのです。
たしかに、節子は絶対に治るという希望は、無残にも打ち砕かれました。
では、その希望は無理なものだったのでしょうか。
そんなことはありません。
その希望が実現する可能性はもちろんあったはずです。
だからこそ希望だったのです。

希望と欲望を等号でつなげるところに間違いがあるのかもしれません。
しかし、たとえば私の若い友人は、希望を持って仏教界に入ったにもかかわらず、その世界が金銭で埋もれている状況に接して失望してしまいました。
仏教界に身を置き社会を正したいという彼の希望は決して欲望ではありません。
欲望ではない希望であっても、やはり裏切られると悩みます。
これは煩悩でしょうか。

そこで行き着いたのが、「決して裏切られることのない希望」です。
私のような「非科学的な」人間は、今でもまだ節子との再会の可能性はゼロではないと確信しています。
だれが絶対ないといえるでしょうか。
科学が不可能だと決めつけていたにも関わらず可能になったことはいくらでもあります。
ですから、私は節子との再会の希望を捨てることはありません。
そして、その希望は私が捨てない限り裏切られることはないでしょう。
実現しない可能性が圧倒的に高いことはもちろん私も認識しています。

決して裏切られることのない希望を持つと、人は強くなります。
それもまたひとつの解脱かもしれません。
しかし、決して裏切られることのない希望は、決して実現されることのない希望なのかもしれません。
希望とは、なんと悩ましいものなのでしょうか。

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