■社会の基本は血縁や地縁です
私と同じように、「無縁社会」という言葉に異議申し立てをしてきている一条真也さんが、「「無縁社会」という言葉を使うのはやめましょう」という記事を紹介してくれながら、自分のブログで、こう書いています。
先日のNHK「無縁社会」特集番組には、内閣府参与の湯浅誠氏が出演していました。
湯浅氏は、「もう血縁や地縁に期待するのは無理なので、日本人は新しい縁を探さなければならない」といったような発言をされていたと記憶しています。
たしかに、今後は趣味の縁である「好縁」や、ボランティアなどで志をともにする「道縁」などの存在が重要になってくると思います。しかし、それよりも、まずは崩壊しかかっている「血縁」や「地縁」を再生することが最優先なのではないでしょうか。
わたしたちは、「血縁」や「地縁」をあきらめてはならないのではないでしょうか。
全く同感です。
ちなみに、血縁や地縁はもう期待できないという主旨の発言は湯浅さんに限りません。
テレビでも私は多くの人から同じような主旨の発言を聞いています。
そしていつもその人たちの見識のなさを寂しく思っています。
知識があっても見識がなければ、時代の流れに流されるしかありません。
私は「大きな福祉」を理念としたコムケアという活動に取り組んでいます。
活動に取り組んでいるというのは正確ではないかもしれません。
活動らしい活動は5年ほどでやめてしまったからです。
それでも、いまでもささやかながら活動は続けています。
最近取り組んでいる自殺のない社会に向けての活動もその一環です。
それはともかく、私の生き方それ自体が「大きな福祉」を核にしていますが、同時にそれはまた「血縁」と「地縁」が基本だと考えています。
前の記事でも書きましたが、社会とは人と人のつながりですが、そもそものつながりの起点は血縁と地縁です。
それで支えられていればこそ、そこからさまざまな縁が生まれていくのです。
「意識の世界」で創られた目的的な、あるいは機能的な縁と、生命や自然に根ざした縁とは、私には同じものとは考えられません。
知縁も好縁も志縁も、それぞれに大切ですし、いいものですが、やはりそこには何かが欠けているように思えてなりません。
そこに私は「近代の落し穴」を感ずるのです。
自殺未遂サバイバーの銀ちゃんに生きようと思わせたのは、他ならぬ妹さんです。
改めて「家族」のあり方を考え直さなければいけないように思います。
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コメント
意識的に縁が無いという人にあるということの強調がどうなのか、と思いましたが、それは「ケア」が意識的におこなうものなのかという疑問で、イリイチは最後の著作で「ケア」が「コモンズ」を破壊するといっているのです。
私は場所を提供する、という意味でそれ以上は個々に任せる、というようなことで、結果まで期待することはしないということではないかと最近場所がいくつかつぶれたのを見て思っている途中です。
希望までで、結末を期待すればそれは場所を破壊するのではないか、と。
述語的場所の意志であり主語的な介入ではないという人もいますが。
投稿: しばさき | 2010/11/21 09:41
しばさきさん
イリイチが問題にしているのは「ケアの制度化」です。
制度の危険性は私も良く認識しています。
私が取り組んでいる活動はすべて脱制度化の考えが基本にあります。
また「意識的に縁が無いという人」の「意識」が問題だと考えています。
意識は制度によって創られるからです。
人々を縁なき存在としてばらばらにしていくことが、近代の基本的な限界だったと思います。
舌足らずですが、「無縁社会」に込められた罠にはまってはならないと思っています。
今の日本人のほとんどは、その罠にはまっています。
つまり極めて御しやすい存在になっているわけです。
ちなみに、柴崎さんは自らを「無縁の存在」と思っていますか。
思っていませんよね。
自分のことを無縁の存在と思っていない人が、他者のことを無縁の存在と決め付ける意味を考えて欲しいと思います。
その傲慢さに気づくはずです。
投稿: 佐藤修 | 2010/11/21 09:53