■節子への挽歌1160:運命
「運命はそれがつくられるにつれて書き記されるのであって、事前に書き記されているのではない」
分子生物学者のジャック・モノーが 書いた「偶然と必然」に出てくる言葉です。
人智の次元で考えれば、モノーが書いているように、結果でしか説明できないのだろうと思います。
敢えて、人智の次元と断ったのは、私たちが実感できる事象のほとんどすべてはモノーの言う通りだとしても、それを超える「何か」があると、私は感じているからです。
その「何か」による「定め」からは、何人たりとも自由ではありえないと考えたいのです。
こう強く考えるようになったのは、節子との別れを体験してからです。
それは、そう考えると心が少し安らぐからです。
もし運命が自らの手で決められるのであれば、あまりにも自分たちが惨めになります。
そして、なぜ「そんな運命」をつくりだしたのかと、自らを責め続けることになってしまいます。
実際に、愛する人を失った人の中には、そうやって自らを責めている人は少なくないかもしれません。
しかし、大きな定めには個人は抗し難いものだと考えれば、心は安堵できます。
自分で思うだけでは安堵しにくいのですが、誰かが、しかも多くの人が信頼する人がそう言ってくれれば、心安らげます。
これが「宗教」の始まりなのかもしれません。
しかし科学者のモノーは、冷たく「運命は事前には書き記されていない」と言い放ちます。
若い頃は、この言葉に元気をもらいました。
しかし今では、どうも宗教に帰依したくなります。
運命を切り開くよりも、運命に従ったほうが、本当に自分を生きられるのかもしれない。
今日、自殺のない社会にむけた公開フォーラムを開催しました。
いろいろな人に出会いました。
いろいろな話を聴きました。
そして、ふとこんなことを考えました。
節子は、大きな運命に従って自分をしっかりと生きた。
そう思うと心が安堵します。
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