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2010年12月

2010/12/31

■年末のお礼

大晦日のテレビはどうしてこんなにも退屈なのでしょうか。
そのおかげで、今日は久しぶりにテレビを見ずに、静かに過ごせています。

今年は実にいろいろなことは見えてきた年でした。
政権交替のおかげで、日本の政治の実態が見えてきましたし、情報社会の到来により、権力が嘘をつくことにもみんな気がつきだしました。
政治と経済がどれほど癒着しているかも見えてきたように思います。
見えないものを見えるようにするのが情報社会です。

しかし同時に見えてきたのは、そうした情報社会にも関わらず、多くの人は真実を見たくないと思い出したということです。
真実よりも、見たい幻想を見ているほうが楽だからなのでしょう。
せっかく見えるようになってきたのに、見る人がいなくなったのは皮肉な話です。

今年の時評編はあまりに独断的で、品格のないものが多かったような気もします。
来年はどうなるでしょうか。
来年は、もう少しみなさんに共感してもらえ、なるほどと言ってもらえるようなものを書けるようにしたいと思っていますが、どうなりますことか。

それにしても、勝手気ままな独善的な時評にお付き合いいただいたみなさまには感謝しています。
ありがとうございました。

気が向いたら、湯島の私のオフィスに遊びに来てください。
毎月最後の金曜日の夜は、だれでも歓迎のオープンサロンを開いています。
書くより話すほうが、私は好きなのです、
いつかお会いできますように。

新しい年が、みなさまにとって楽しい年になりますように。

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■節子への挽歌1216:希望に感謝して生きる

節子
節子のいないまま、また1年をなんとか乗り越えました。
大晦日の夜になると、いつもとはとがって、節子のいない寂しさが全身を覆うような気がします。
節子がいた時に、幸せな年越しは、もう2度とやってこないでしょう。

そしてもう数時間で、新しい年が始まります。
今年は年末になって、ユカが肺炎になったので、初日は一人で見ることになるでしょう。

昨年の元旦はどんな気持ちだったのだろうかとホームページを調べたら、次のように書いていました。
自分で書いた文章にもかかわらず、何回も読み直してしまいました。
今年最後の挽歌は、その文章を再掲することにしました。
今の私の気持ちにとてもぴったりするからです。

新しい年が始まりました。
私に生きる意味を与えていた妻を見送ってから3回目の新しい年です。
妻への思慕の念は高まりこそすれ弱まることはありませんが、みなさんからは元気になってよかったとよく言われるようになりました。
確かに元気にはなりました。
「希望を確信するのではなく、希望に感謝して生きたい」
これが昨年の年初の思いでした
希望に感謝するとはわかりにくい言葉ですが、要するに生きていることに感謝するということです。
生きていることに感謝する「お返し」は、自分の生が他者に意味を与えることかもしれません。

私にできることは何か。それが昨年の課題でした。
少しは他者のためになったでしょうか。それはわかりません。
しかし今年も、自分ができることは何だろうかと、会う人ごとに考えながら生きていこうと思います。
それこそが、生きる意味を取り戻し、希望が見えてくる道なのかもしれません。
そして、時代の岐路といわれる現在、まさにその生き方が求められているようにも思います。
みなさんは、人生の意味をどうお考えですか。
平安がもっともっと広がりますように。
2010年1月1日
佐藤修

まもなく、節子を見送ってから4回目の新しい年がはじまります。
まだ希望は見えてきませんし、生きる意味も取り戻せずにいますが、それがなくても平安は得られることを学びました。
節子と毎日会話しているおかげかもしれません。


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2010/12/30

■節子への挽歌1215:意識は変わらないのに表象は変わっていきます

節子
今年もあと2日です。
この1年、実にいろいろなことがありましたが、娘たちも含めて、なんとかそれぞれの生活を取り戻しつつあるように思います。
おそらくこの挽歌も、年初と年末では雰囲気がかなり変わっていると思います。

一昨日の集まりで、20代の若者から、「佐藤さんはいつも夢があって幸せそうです」と言われました。
悲しみによどんでいた1年前に比べれば大きな変化です。

この挽歌の読者からも、あたたかい、あるいは辛らつな、メールをもらいました。
以下無断転載です。

1年間無料で、妻への挽歌購読させていただき、有難うございました。
頼りなさそうにとぼとぼ歩いているかと思うと、気力を振り絞って無謀な時間破産なとのたまったり。

はちゃめちゃながら、その破天荒ぶりを支えていた方を、懐かしく偲んだり。心の中を吹き荒れる嵐を、じつと耐えたり、枯野に晒したり、ワンワン泣いたり、苦い酒を飲んだり(佐藤さんが下戸なのは幸いです)。

そんな佐藤さんを読者は暖かく見守っているのです。
めんどくせえ奴だ、めそめそしやがって!独りよがりなだけじゃないか、おめえだけがヒーローかよ!
ケドョおめえはえれえよ、裸になることを、恥ずかしく思っていないんだもの。

自虐さは相変わらずだけど、時間が薬です。
痛みすら懐かしく思える、時が来るのではないでしょうか。
私はまだ痛みは痛みで、その痛みで眠れない時さえあります。

答えも、開放する術も、ごまんとあったとしても、今の状況が案外楽なのかもしれません。
来年は佐藤さんにお会いしてもいいかなと、思っています。

この方も愛する伴侶を見送りました。
この文章は、私と自分とがかなり入り混じっている気がしますが、この方も私と同じく、きっと1年前とは変わってきています。
意識ではまったく何も変わっていないのに、表象では変わっていく。
「私は、私と環境である」といったオルテガを思い出します。

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■因果のベクトル

一昨日、今年最後のオープンサロンを開催しました。
いろんなことが話題になりましたが、幸せ論もテーマのひとつでした。
ある人が、経済水準の高い先進国ほど不満が多いという調査結果もあるという話をしてくれました。
30年前に比べて、今の日本は幸せかどうかという議論もありました。

こういう議論を聞いていていつも感ずるのは、みんな思考の枠組に呪縛されていると言うことです。
因果のベクトルが決まっているのです。

例えば、多くの人は経済が発展すれば豊かになると思っています。
経済発展が因で豊かな生活が果です。
しかし現実は逆かもしれません。
豊かでないから経済が発展すると考えたらどうでしょうか。
そう考えれば、経済水準の高い先進国ほど生活の不満が多く、幸せ感のない人が多いのは当然です。
みんなが幸せだったら経済は発展しないでしょう。
だから経済を主導する人たちは、不安や不満を高めようとするのです。
自殺が多いと騒ぐのは、まさにその一つの典型例です。
自殺が多いと騒ぐ方法では、自殺を加速させこそすれ減らしはしないでしょう。
いささか問題発言ですが、私は今の自殺予防キャンペーンには反対です。
私も、自殺のない社会づくりネットワークの活動に関わっているので、仲間から非難されるかもしれませんが、自殺防止と自殺のない社会づくりとは、似ているようで因果のベクトルが違うのです。

貧困大国と言われるアメリカを思い出せばすぐわかりますが、貧困をつくることが経済成長の極意です。

因果のベクトル(方向性)を反転させて考えるといろんなことが見えてきます。
経済が発展するから地球環境が壊れるのか、地球環境を壊すから経済が発展するのかを考えれば、納得してもらえると思います。

平和もそうです。
憎しみの構図があるから平和が維持できないのか、平和を目指すから憎しみの構図が強まるのかも、9.11事件の後の世界を見れば一目瞭然です。

にもかかわらず、多くの人はこれまでの固定的な因果のベクトルで考えています。
そんな発想で世界が見えるわけがありません。
無縁社会や孤族キャンペーンは、恐ろしい毒を秘めています。
そうしたキャンペーンに騙されてはいけません。
そうした言葉を口にしている人たちは、魂を売った哀れなファウストでしかありません。

もっともベクトルは反転させればいいわけではありません。
そもそも単線的な因果構造で発想するのがいいわけではないのです。

もうひとつ悩ましいのは、概念の多様性です。
私は数年前の環境経営提言で、経済と環境のシナジーを出しましたが、その因果のベクトルは要素概念をスパイラルに変質させます。
シナジーを実現するには、経済も環境も概念変化しなければいけません。
つまりベクトルは常に要素概念を巻き込みながらダイナミックに双方向に流れているのです。
このあたりの発想は近代の論理にはありません。
そろそろ近代の知の呪縛から解放されなければいけません。
少なくとも、因果のベクトルを反転させて見るのもいいかもしれません。
それくらいの知性はまだ私たちに残っていると思いたいです。

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2010/12/29

■節子への挽歌1214:喪失の悲しみを癒すのは新しい出会い(愛)

浜松のUさんが節子に,といって花を持ってきてくれました。
Uさんと節子は面識はありませんが、Uさんも愛する人を見送ったことから、以前一度湯島に訪ねてきてくれたのです。
大阪でのある集まりにも、参加してくれました。
そのUさんから数日前にメールが届いたのです。

大阪での集まり以来、すっかりご無沙汰していますが、お変わりございませんか。
最近の挽歌、読ませて頂きましたが、お忙しそうですね。

私も元気に、忙しく活動しています。
時が出会いを運んできてくれたのです。
その出会いは、喪失感でいっぱいだった私になぜか、やる気と元気を与えてくれました。
そして、今はその人の為に、自分のできる限りのことをしたいという思いにかられています。

喪失の悲しみを癒すのは、新しい出会い(愛情)なのかもしれません。
因みに、今、育もうとしているのは「友情」です。

さて、今回メールしているのは、他でもない、その友人の力になりたいからです。
今、窮地に立たされているその友人の為に、私ができることを考えていたら佐藤さんのお顔が思い浮かびました。

佐藤さんのご経験の中でのお知恵、アイディア、お考え、是非とも伺ってみたいのです。
私は、私にできる、思いつく限りの行動を起こさずにはいられません。

そしてぜひとも年内に会いたいと行って、やってきたのです。
そして節子へと花をいただきました。
節子の好きな、あったかなやわらかい花でした。

「窮地の友人」の話を聞きました。
ミュージシャンで、その人の曲に感動したのが、出会いだったようです。
そして彼から、愛する人を失ったUさんを元気づけようと、Uさん一人に向けたコンサートのCDが送られてきたのだそうです。
そういう活動をしているミュージシャンのようです。
その彼が、活動を継続でききるかどうかの問題に直面しているようです。
そこでUさんは「自分でできること」はないかと動き出したのです。

Uさんは、スピリチュアルな若い女性です。
最初に彼女に会って話を聞いた時に感じたことは、どう考えても現世の論理には合わないということです。
私以上に、現世とそこでの常識を超えています。
その彼女が、
「喪失の悲しみを癒すのは新しい出会い(愛)」
と言うのです。

いろいろと話をして、少しだけ彼女の「できること」が見えてきたようです。
彼岸の人と話すと生きる力をもらえますが、現世の人と話すことも、意味があるかもしれません。
彼女が来年何を始めるか、私にも少しわかるような気がします。
私も少しはUさんに役立ったかもしれません。

今年は、ほんとうに、「支え支えられる年」でした。

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2010/12/28

■節子への挽歌1213:にぎやかなオープンサロンの再現

節子
今日は今年最後のオープンサロンでした。
20人を越える人たちが来てくださり、昔のオープンサロンの雰囲気が久しぶりに再現された感じです。
顔ぶれも、節子が知っている懐かしい顔が何人かそろいました。
ここに、節子と黒岩さん がいたら、昔のサロンそのものでした。
黒岩さんの話題もでました。

たくさんの人が来たので、私ひとりではとても対応できなかったのですが、ネットワーク・ささえあい事務局長の福山さんが節子代わりに対応してくださいました。
節子がいなくなってからの、湯島での集まりでは、不思議なことですが、必ずと言っていいほど、だれかが接待や後片付けの役を自発的にやってくれるのです。
女性だけではありません。
時には男性の、思っても見なかった人が、珈琲カップなどを洗ったりしてくれるのです。
私が、その種のことが苦手なことをみんな感じとるのかもしれません。
そんなわけで、節子がいなくても、湯島での集まりは不都合なく続けられているわけです。

サロンのない様などはホームページ(CWSコモンズ)のほうに書こうと思いますが、4時間のロングランのサロンも、なかなか終わらずに、話題もいろいろでした。

ところで、サロンが始まる前に台湾から電話がありました。
留学生時代に湯島によくきていた呉さんでした。
私の声を聞いて、佐藤さんの声が元気になっていて、うれしいと言ってくれました。
呉さんは節子もよく知っているのです。
今度、奥さんと一緒に来日するそうで、我孫子のわが家を訪問したいというのです。
とてもうれしい話です。
そういえば、昔、節子と一緒に留学生の集まりの場もやっていたのです。
そのことも思い出しました。

来年は、また節子がいた頃のようなサロンを、きちんと再開しようと改めて思いました。
なんだか今日は、7年前に戻ったような、そんな日になりました。
年末の多用な時期に、わざわざ湯島まで来てくださった方たちに感謝しなければいけません。
節子と一緒に長年にわたって、さまざまなサロンをやっていたことは、いまの私にたくさんの元気を与えてくれます。
節子にも感謝しなければいけません。

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2010/12/27

■節子への挽歌1212:愛と執着

節子
寒くなりました。
今年はなかなか時間に余裕ができません。
自宅の大掃除も目処がたっておらず、ましてや湯島の掃除は年を越しそうです。
なぜこんなに時間がないのか。

なんでもかでも、節子を理由にするように思われるかもしれませんが、これは間違いなく節子の不在のせいだろうと思います。
なぜかといえば、節子がいればこそ、自分の時間をつくる意識が働きましたが、いまはそういう意識が働かないのです。
基軸がないと人は流れに身を任せてしまうもののようです。

その時間のないなかを、かなり難解な本を読んでいます。
フランシスコ・ヴァレラの「身体化された心」です。
1991年に出版された本ですが、ずっと気になっていた本です。
ヴァレラはオートポイエーシス論を言い出した一人ですが、その視点で社会や組織を見ると新しい視野が開けてきます。
私のこの15年の発想の根底にあるのが、このオートポイエーシス論です。
日本広報学会で話をさせてもらったことがありますが、残念ながら反応はゼロでした。
それでその学会には見切りをつけて辞めました。
まあそれほどある意味では私の発想の基本になっています。

といいながらも、実はきちんとは理解できていないのです。
それで気になっていたヴァレラを読み出したのです。
時間がない時こそが、難しい本を読む時だというのが私の考えです。
さまざまなことをやっている時は、心身が活性化しているから、本の吸収力が高まるのです。

ところがこの本はあまりに難解で、なかなか進みません。
これほど歯がたたない本は久しぶりです。
何となくわかるようで、わからないところが多いのです。
もう読みはじめて1週間は立ちますが、今日、やっと半分ほど読み進んだのですが、そこに仏教の縁起の話が出てきたのです。
そして、愛と執着に関する記述が出てきました。

愛(渇望)からすぐに生じるのは執着/固執である。
そして、愛は輪廻においてきわめて重要な結節点になっていて、ここで覚知した人は解脱できると書かれています。

この文章に出会ってから、また前に進めなくなりました。
この文章の前後に出てくる記述が、あまりに今の私にぴったりなのです。
おかしな言い方ですが、もしかしたらやっとオートポイエーシス論が理解できるかもしれません。
これも節子の導きでしょうか。

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2010/12/26

■言語が通じない苛立ち

最近、どうも私の言語が周りの人には通じていない「苛立ち」を強く感じます。
もしかしたら、住んでいる世界が違うのではないかとさえ、思うことがあるほどです。
そんなこんなで、今日はまたいろんな人に八つ当たりしてしまいました。
困ったものです。

私のホームページには私が昔書いた小論が一部載っています。
それを読んだ人から、こんな時期にこんなことを書いていたとは驚きましたと言われることが時々あります。
一昨日、お会いした人からもそう言われました。
私はついつい「褒め言葉」と受け止めてしまいますが、それは時代に合わないピントはずれの意見でしたね、ということでもあります。
早ければいいわけではないからです。
早すぎる論説は、単に間違った論説でしかないのです。

どうも私の世界観はずれています。
時間軸が違っているのかもしれません。
それは学生の頃からでした。
そのずれを時々面白がってくれる人はいますが、社会性はないというべきでしょう。
事実、私は何も成すことなく、自分の小さな世界から抜けられずにいます。

先週、地元住民のある会で、友人が講演をしました。
その話を聞いた聴衆の一人が、カタカナが多くて理解できなかったと発言しました。
同調する人もいましたが、友人の話は、カタカナは決して多くはなかったのです。
目新しい言葉は「コモンズ」くらいだったでしょうか。
要するにその人は、最初から理解する気がないのです。
そんな人には講演を聴く資格はないと私は思いますが、そういう身勝手なボケ老人ほど、自らが賢いと思っている傾向があります。
わからない言葉があったら質問すればいいだけの話ですが、理解する気がないですから、質問せずに「いい訳」をするだけなのです。
なんと傲慢なことでしょう。
そうした人を見ると蹴飛ばしたくなりますが、蹴飛ばしたらすぐ転んで怪我をするでしょうから蹴飛ばすこともできません。
知性のない人は体力もないのが普通です。
困ったものです。

何を書いているのか、だんだん荒れてきてしまいました。
そろそろ私も、身勝手なボケ老人になってきているのかもしれません。
蹴飛ばされても怪我をしないように、足腰を鍛えておかなければいけません。
しかし、最近は、知性も体力もあまり自信がありません。
いやはや、困ったものです。

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■節子への挽歌1211:イルミネーションのない年末

節子
今年のわが家には、例年のようなイルミネーションはありません。
少しさびしい気もします。
年末に来て、みんな忙しくなってしまい、それどころではなかったのです。

節子はイルミネーションが好きでした。
私はあまり好きではありませんでした。
私の生活信条に反するからです。
でも節子がイルミネーションを飾ることには反対はしませんでした。
人にはそれぞれの生き方があり、夫婦といえどもお互いの好みは大切にしなければいけません。

しかし、イルミネーションに関しては、いまでもちょっと後悔していることがあります。
星の形のイルミネーションを節子が買おうとした時に私が反対したことです。
私には、いささか野暮ったく思えたので反対したのですが、その後、いろいろと他のお店を探しても、いいものがなかったので、諦めてもう一度そのお店に買いに行ったら、売り切れていたのです。
たいしたことではなく、節子もさほど欲しがっていたわけではないのですが、ずっと心に残ってしまいました。
そういう「瑣末な記憶」が、心をつつきます。
自虐趣味と思われるかもしれませんが、決して「自虐」ではなく、思いを通じ合った記憶なのです。

昨年は娘が一部のイルミネーションを飾りましたが、その娘たちも今年はいろいろと忙しそうです。
材料は出してあるのですが、飾らないままにクリスマスも終わってしまいました。

節子はクリスマスのイルミネーションに限らず、季節にあったちょっとした飾り付けが好きでした。
それに気づいて、心がホッとしたり、季節を思い出したり、節子のそうした遊び心が私は大好きでした。
その価値はよくわかっていますが、私にはそれができません。
人にはそれぞれできることとできないことがあります。
そのことが最近よくわかってきました。

たぶん私たちは、気づかないままに、お互いを支え合う関係になっていたのです。
節子がいなくなって、私の世界が変化してきているのは、そのせいだろうと思います。
こうして、人は変わっていくのでしょうか。
環境の変化と自己意識の変化にはタイムラグがあるようで、相変わらず違和感のある世界に投げ込まれたような思いから抜けられずにいるのです。

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2010/12/25

■節子への挽歌1210:幸せは思い出すのではなく、その時に気づくのがいい

節子
節子がむかし使っていた小さなノートが出てきました。
そこに、こんな言葉が書いてありました。

幸せは経験するものではなくて、あとで思い出してそれと気づくものだ
ピアニスト オスカー・レバント
節子は気になった言葉や気づいたことをすぐメモする習慣がありました。
これもそのひとつでしょう。
よく見ると、平成17年2月4日、ニフィティカードと書き添えていました。
2月4日は節子の誕生日です。
ニフティからのバースデイカードに書いてあった言葉でしょう、
ちなみに、この言葉をネットで調べたら、出てきました。
オスカー・レバントは、アメリカのピアニスト、作曲家、俳優とあります。
「巴里のアメリカ人」にも出ていたそうです。

平成17年2月4日。
節子が少し快方に向かっていた時です。
ホームページで確認したら、節子の還暦の日でした。奈落の底から前に向かって動き出していた頃です。
あの頃の節子は、まちがいなく「日々の幸せ」を意識していました。
一緒にいた私には、それが確信できます。
しかし、レバントの言葉とは違って、節子はそれを思い出すことはなかったのです。

今の節子ならこういうでしょう。
幸せはあとで思い出すものではなく、その時に気づかねばいけない、と。
節子は病気が快方に向かい出してからは、そのように生きていました。
思い出す幸せよりも、生きる幸せに、私たちは感謝しなければいけません。
そのことを教えてくれた節子に、私は感謝しています。

ただどうしても、今はまだ、その幸せ感が持てないでいます。
節子がいない人生には、幸せなどはあろうはずがないという意識から抜けられないのです。
私の場合は、レバントの言葉も心に響きます。
節子がいた時が、いかに幸せだったか、経験していた時よりも、今のほうが、その幸せの大きさがよくわかります。
あの幸せには、もう二度と出会えないのでしょうか。
もしそうならば、思い出したくもない幸せでもあります。

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■コラテラルマーダー

ウィキリークスが流した映像の一つに、イラクでの民間人掃射があります。
その映像は「コラテラルマーダー」というタイトルで流されています。
やむを得ざる殺人とでも訳していいでしょうか、
コラテラルダメッジの典型的な事例です。

前の項で書いた「殺処分」もまさに「コラテラルマーダー」ですが、そこに強い共通性を感じます。
しかし多くの人は、イラクの映像には恐れや怒りを感じても、家畜の殺処分には同情や悲しみしか感じないのではないかと思われます。
私たちはそれほど鈍感になっているのです。

諫早湾の開拓はどうでしょうか。
時間をかけた小規模の開拓はいいとして、諫早湾の工業的な開拓もまた、見合えないところでたくさんの生物を「殺処分」しているかもしれません。
そうしたことをすべて否定するつもりはありませんが、その意味だけはきちんと認識しておくべきでしょう。

恐ろしい時代に私たちは住んでいるのです。

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■「殺処分」の狂気

鹿児島県出水市のナベヅルから鳥インフルエンザウイルスが検出されたことで、また撮りインフルエンザの広がりが懸念されています。
また鳥の「殺処分」が起こらなければいいのですが。

ところで、前にも書きましたが、「殺処分」という手法におおきな恐怖を感ずるのは私だけでしょうか。
恐怖だけではなく、どうしても納得できないのです。

人も病気になります。
伝染性の高い場合は隔離治療されます。
しかし「殺処分」はされません。少なくとも最近は。
動物愛護協会は、動物の「殺処分」をどう考えているのでしょうか。

動物も病気になるでしょう。
だからいって、まだ感染もしていない鳥や牛や豚を予防のためとい言って「殺処分」する発想がどうしても理解できません。
動物から「病気になる権利」を奪うのか、などといった「おかしな議論」をする気はありませんが、病気が広がって何が悪いのかとさえ、私は思います。
予防のために可能性のある生命を「殺処分」するというのは、どう考えてもおかしいように思います。
「殺処分」しなかったら、「殺処分」された以上の生命体が死ぬのでしょうか。
その可能性がないとはいえませんが、そうでないかもしれません。

ともかく「危険な要素」は抹殺しておくというのは、私の発想には全くなじめません。

ところで、昨日、ある人が、ある人の紹介で私を訪ねてきました。
メールによれば、
「○○先生より、『大変な(危険な!?)人物である』とうかがいました」
と書いてありました。
その○○先生は、このブログも含めて、私のサイトを読んでくれたようです。
どうやら私もまた「危険な要素」なのかもしれません。
まだ目立たないので魔手は届いていませんが、そのうち抹殺されるかもしれませんね。
恐ろしい時代です。

しかし、「殺処分」する側であるよりも、「殺処分」される側であることはうれしいことです。
みなさんは、どちらを選びますか。

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■情報を閉じ込めるような管理はもうできません

ウィキリークス事件や尖閣沖での中国漁船の映像事件、あるいは警視庁の機密情報事件など、これまでとは少し違った情報公開事件が頻発しています。
それに対して、当事者を罰しようという動きもありますが、そこでの議論は時代錯誤としか言いようがないように思います。
問題の情報は公開されるべくして公開されたというべきでしょう。
いや、「公開」と言う言葉さえ的確ではないでしょう。

そもそも情報とは組織を超えて動き回るものなのであり、
自由に動き回ることで、その価値を高めていくものです。

秘伝という言葉があります。
これは情報を閉じ込める発想です。
情報を閉じ込めることで、その情報のエネルギーを高めていく手法です。
水をためてダムを造り、一挙に流すことで大きな力を得ることができるように、本来、自由に飛び回る情報を閉じ込めることで力を得ることができますが、これは「情報は動き回るもの」という本質を逆手にとった手法です。
それが有効な時代もありました。
それが国家の時代であり、そこでの企業経営はまさにその手法をとりながら市場を拡大してきました。

しかし情報社会においては、そうした手法はとれません。
なぜならば情報環境が全く変わり、情報力(動き回るダイナミズム)と組織力(閉じ込めるダイナミズム)との力関係が逆転したからです。
そして、「情報ガバナンス」の主体が交代したのです。

そうした認識を持たなければ、もはや政治も経済も効果的な運営はできないでしょう。
時代は全く変わってきているのです。

一海上保安官が行動を起こさなくとも、ジュリアン・アサンジがいなくとも、情報は世の中に出回ったでしょう。
それを可能にする情報環境が生まれたからです。
情報社会とは、そうした社会なのだろうと思います。

そうした社会にもかかわらず、多くの人は自らの小さな組織やコミュニティに閉じこもって、目や耳をふさいでいるような気がします。
素直に考えてください。
問題になっている情報が社会に公開されて、あなたは何か不都合がありますか。
隠されていたことこそ不都合ではないですか。
犯罪者に加担するマスコミに騙されてはいけません。
彼らこそ、恥もなく情報をゆがめている張本人なのですから。

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2010/12/24

■節子への挽歌1209:Happy Doll

節子
久しぶりに夜の銀座を歩きました。
私たちが歩いた頃とはまったく様変わりです。
なぜこんなにも華やいでいるのでしょうか。

銀座に行ったのは、銀座和光のショーウィンドウに飾られたHappy Dollたちを見にいったのです。
Happy Dollは、ホスピタルアートに取り組む高橋雅子さんたちのHappy Doll Projectから生まれました。
高橋さんたちは、5年前から全国の病院をまわり、患者さんたちと一緒に、願いと希望をのせた人形作りに取り組んできました。
5年目の今年は、全国7病院を巡回後、そこで生まれたHappy Dollたちをニューヨークで病気と闘う子どもたちに届けるために、2つの病院と会場にて初の海外プログラムを実現させたのですが、そこで活躍したHappy Dollたちが銀座に出現したというわけです。
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残念ながら、その舞台も明日でおしまいです。
ぎりぎりのところで、何とか私もHappy Dollたちに会うことができました。
子どもたちのたどたどしい文字でメッセージも書かれていました。
しかし、Happy Dollと名づけられたように、みんなとても明るく、前を向いていました。
子どもたちはみんな、いつも前を向いているのです。
その一人ひとりに、たくさんの物語があるのでしょう。

たくさんの幸せそうな若者たちも、Happy Dollたちを見ていました。
彼らはそこに、どんな物語をみていたのでしょうか。

これからHappy Dollたちを見にいくといったら、それまで仕事で会っていた2人の友人も付き合ってくれました。
私とほぼ同世代の、ビジネスマンらしからぬビジネスマンたちです。
お2人はHappy Dollたちをじっくりと眺めていました。
その横顔に涙さえ感じました。
みんなちょっと元気をもらえたかもしれません。

節子
久しぶりの銀座は、私には目がくらみそうになるほどの華やかさでした。
節子と歩いた頃とは全く違う世界のような気がしました。
銀座が変わったのでしょうか、それとも私が変わったのでしょうか。

Happy とはいったいなんだろうか、そんなことを考えながら帰ってきました。
私にはやはり節子の写真を見ながら、挽歌を書いているときが一番Happyなのかもしれません。

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2010/12/23

■節子への挽歌1208:いのちの大きな循環

私が天平時代の人たちの声を聞いたのは、高校3年の春でした。
修学旅行で奈良の薬師寺の薬師三尊を拝観している時でした。
なぜか牛車の音が聞こえ、人々のざわめきが聞こえたような気がしたのです。
それは目の前の薬師如来から聞こえてきました。
その時に、仏には時代を超えたたくさんの人たちの祈りが込められていると実感したのです。
以来、仏像が好きになりました。
そこにはさまざまな時代を誠実に生きた人たちの祈りが結集しているからです。
それこそがもしかしたら、虚空蔵への、あるいは彼岸への入り口かもしれません。

祈りによって解放された心身はどこにいくのか。
そうしたあまたの祈りが具象化したひとつが仏像かもしれません。
仏師の西村さんが、仏像は彫るのではなく、姿が現れるのをただたすけるだけだ、というようなことをお話しになったのを聞いたことがあります。
それを聞いて、私も試みましたが、手は動きませんでした。
節子からは笑われました。
しかし、やはりあの時は、祈りがなかったのです。

毎朝、節子の位牌とわが家の大日如来を前に、般若心経をあげています。
それと同時に、節子への感謝と、誰にでもない、そして内容もない、「祈り」をあげます。
時には、誰かの名前や顔を思い出しながら、時にはイラクの映像を思い出しながらですが、ただただ無為に祈ることもあります。
こうした「祈り」が、いつの日か、なにかの形へと具象化していくのかもしれません。
そして、その具象化したものから、私たちは大きな安堵や平安を受け取るのです。
時空間を超えた、いのちの大きな循環を感じます。

節子に向いて、私が祈るとき、私の背後で節子が祈っている。
そんな気もします。
祈りは、ふたつの世界をつなぐだけではないのです。
大きな「いのちの輪」をまわしているのかもしれません。

私に欠けていたのは、「祈り」ではなかったようです。
祈りをする自らを消し去ることだったのです。
止観を超えなければいけません。

メルロ=ボンティは、「世界は主体から分離しえないが、この主体とは世界の投影に他ならない。そしてまた、主体も世界から分離しえないが、この世界も主体そのものが投影する世界なのである」と述べています。
この言葉の意味が、最近少しわかってきたような気がします。

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2010/12/22

■節子への挽歌1207:祈りとは心身を任せること

昨日の続きです。

祈りについて、最近、この挽歌で書いたことを思い出しました。
まさに「うつし世の静寂に」をみた直後に書いていました。
そこには「祈りとは、ふたつの世界をつなぐもの」と書かれていました。
ふたつの世界とは、いうまでもなく、彼岸と此岸です。
その意味では、この挽歌は、そもそもが祈りかもしれません。

にもかかわらず、昨日は私自身に「祈り」が欠けていることに気づかされたのですが、それはこの挽歌に十分な思いがはいっていないためなのかもしれません。
昨日から時間の合間に「祈り」について考えていたのですが、祈りとは心身を任せることではないかという気がしてきました。
では誰に心身を任せるのか。
たぶん誰にでもなく、ただただ心身を投げ出して、任せるのです。
言い換えれば、それは「捨てる」ことかもしれません。
「心身を解放する」と言ってもいいでしょう。
ではどこに捨てるのか、何から解放するのか。
こうして思考はどんどん進んでいきます。

しかし、さきほど、前に書いた記事のことを思い出したのです。
「祈りとは、ふたつの世界をつなぐもの」
読み直してみました。
すっかり忘れていましたが、すんなりと心身に入ってきます。
まあ自分で書いたことですから、それも当然の話でしょうが。

その2つの話をつなげると、こうなります。
彼岸と此岸の狭間に、自らの心身を投げ出して、自らを空しくする。
なんだかすっきりしますね。

現世の悩ましさや煩わしさも、彼岸への憧憬も不安も、すべてが消えてしまいます。
とここまで書いて、また思い出したことがあります。
これは明日に回します。
期待していただくほど、たいしたことではありませんが。

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2010/12/21

■福知山線脱線事故での経営者の責任の取り方

JR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪に問われている山崎JR西日本前社長の初公判が始まりました。山崎被告は罪状認否で「この場を借りて被害者の方におわびしたい」と謝罪した上で、「まったく事実と異なります」と無罪を主張したと報道されています。

思いだしたのは映画「沈まぬ太陽」です。
「沈まぬ太陽」は、日航をモデルにした山崎豊子の小説が映画化されたものですが、見終わった後、とても嫌な気持ちが残ったのを覚えています。
あまりにもリアルであるにも関わらず、問題は何も解決されておらず、大きなメッセージもないまま、個人の生き方の問題に矮小化されていたからです。
そこでも、経営者は全くと言っていいほど責任をとっていません。
いや、そんな気などさらさらない人たちが経営者になっていくと、その映画は語っています。
多くの観客は、これは映画であって、企業はここまではひどくはないだろうと思うかもしれませんが、わずかばかり企業の経営者や高級官僚と言われる人と付き合いのあった私には、こんなものではないとさえ思います。

しかし、彼らは悪いことをしているとは思ってもいないのです。
ですから、今回の山崎さんのように、事実とは違うと主張するのです。
そして、それもまた決して嘘ではないのです。
要するに彼らは、現場に立脚した経営などしていないのですから、わかるはずがないのです。

「沈まぬ太陽」は、労働強化とコストダウンのために、飛行機を安全に運行することができなくなっていることへの経営陣への労働組合の異議申し立てから物語が始まります。
コストダウンと安全性の向上は、不思議なことに、企業経営では二者択一の課題になっているのです。
そのおかしさに、日本の経営者は気づいていません。
財界トップが経営を主導している大企業で、どれだけの自殺者やメンタルダウンが起きているか。
情報はほとんど公開されていないと思いますが、かなりの数なのではないかと思います。
そうしたことを放置している経営者が、日本の経済や政治を主導していると思うと、ぞっとします。
法人税率を下げても、人間にはまわってこないでしょう。
「沈まぬ太陽」は、そのことはメッセージしています。

経営者は、自らの組織で起こっていることに関しては、いかなる場合であろうと「無罪」ではありえません。
JR西日本の不幸は、おそらく経営者に人を得なかったことでしょう。

山崎さんは、彼の主張するように、無罪にしてやればいいでしょう。
裁く価値さえないような気がします。
大切なのは、そう言う人が社長になる企業の仕組みを正していくことのように思います。

実に腹立たしい記事を新聞で読んでしまいました。

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■節子への挽歌1206:祈り

節子
また夜明けに目が覚めました。
なぜかわからないのですが、急に、私の今の生き方に何かが欠けているような気がしました。
なぜそんなことを考えたのか、わかりませんが、時々、夜中に誰かから問題を与えられたような感じで、目が覚めるのです。
その時はかなり深い思索ができて満足するのですが、その後、必ずといっていいほど、また眠ってしまい、起きると思い出せません。
問題だけは思い出せるのですが。

今朝の思索での結論は、私に欠けているのは「祈り」だということだったような気がします。
節子には「祈り」がありましたが、私には「祈り」がないのではないかというようなことを考えていたような気がします。

先日観た映画「うつし世の静寂に」のテーマは「祈り」でした。
かつては人々の暮らしの根底に祈りがあったというのです。
とても納得できます。
昨今は「祈り」があまりにもありません。
そして私自身は、それなりに「祈り」を意識して生きてきた思いがありました。
しかし、本当に私には「祈りのこころ」があったのか。

節子は寝る前に感謝の言葉を口にして祈っていました。
節子が病気になってからは、私も隣で同じように祈りました。
節子は時々、言いました。
修の祈りにはこころがこもっていない、と。
決してとがめるような言い方ではなく、節子らしく笑いながらの好意的な言い方でしたが。
しかし、困ってからの祈りは打算以外の何ものでもないのかもしれません。

「祈り」がないのは、私だけではありません。
社会から「祈り」が失われつつある、そんな気がします。
だからこそ、祈らなければいけません。
しかし、「祈る」とはどういうことでしょうか。

今朝、目覚める前にはひとつの結論に達していたはずですが、どうしても思い出せません。
夢の世界と現実のこの世界の中間に、彼岸と此岸とをつなぐような、夢現(ゆめうつつ)なもうひとつの世界があるような気がします。
その世界ではさまざまな呪縛が解かれて、人はみな哲学者になり、世界が限りなく見えてくるのかもしれません。
その知恵を、現世に持ち込めないのが残念です。


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2010/12/20

■節子への挽歌1205:手賀沼公園に3年半ぶりに行きました

節子
我孫子市の市長選に現職に対抗して立候補した若者がいます
坂巻さんという40歳の若者です。
40歳が若者といえるかどうかはかなり疑問ですが、この歳になるとそう感じます。
ふと思い立って、その人を応援することにしました。

昨日、彼のキックオフ集会でした。
節子が好きだった手賀沼公園で、手賀沼を見ながらの集会でした。
節子がいなくなってから、初めて手賀沼の水際まで行きました.
3年半ぶりでしょうか。

手賀沼公園は、節子のリハビリのために、2人でよく散歩に行きました。
ベンチに座って、夕陽を眺めたこともあれば、早朝に白鳥を見た記憶もあります。
元気になったらボートに乗りたいと、節子は言っていましたが、実現しませんでした。
節子がいなくなってから、私は手賀沼公園に入ることはありませんでした。
一度だけ用事で入り口まで行きましたが、落ち着かずにすぐに帰りました。
その手賀沼公園でキックオフ集会をやったのです。

節子へも献花ためにわが家に2回も演奏に来てくれた宮内さんに頼んで、会場の雰囲気づくりの演奏もしてもらいました。
幸いに天気に恵まれ、たくさんの人たちが来てくれました。
そこで思わぬ人に会いました。
節子が入っていたコーラスグループ「道」の浜田さんです。
向こうから声をかけてくださいました。
浜田さんはさまざまな活動に取り組まれていると節子から聞いていましたが、今回も決して有利ではない坂巻さんを応援してくれているのです。

県会議員の花崎さんも来ていました。
彼が県議に立候補した時には、節子と一緒に選挙事務所に激励に行ったものです。
その花崎さんも、もう県議を2期も務めています。

節子が元気だったら、たぶん私よりも一生懸命に活動したかもしれません。
しかし、私よりもずっと生活者でしたから、いまのような選挙活動のやり方や政策には批判的だったのではないかと思います。
節子は、いつも生活者の視点を崩しませんでした。
知識はあまりありませんでしたが、いつも先入観なしの素直さで生きていたように思います。
そして、いつも「正義」の人でした。
最近流行の難しい「正義」ではなく、極めて素朴な、人としての「良識」です。
いまの状況を知ったら、節子なら行動を起こすような気がします。
そんな気がしながら、私もささやかに関わっているのです。
節子がいないのが、ほんとうに残念でなりません。

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2010/12/19

■地方議会のミッションは変わる時期です

阿久根市の市議会リコールが成立しました。
一時期、不成立と報道された名古屋市でも議会リコールが成立するようです。
地方議会は時代状況の変化の中で、そのミッションを変えるべきであるにもかかわらず、旧態依然の運営をしている地方議会が圧倒的に多いように思います。
この2つのリコール成立は、そうした地方議会の存在意義までをも問うているように思います。

私は今、地元の千葉県我孫子市の市長選の立候補予定者を応援することにしています。
現職に対抗して、若い市議が立候補したのです。
私自身は何人かの市議を個人的に知っていますが、たいへん失礼ながら、今のような活動であれば、市議は不要だとさえ思っています。
こんなことをいうと、それではなぜ市議出身の人を応援するのかと言われそうですが、市長も市議も、ミッションを見なすべきだろうと思っています。
出来ればそうしたことに少しでも関われればと思っているわけです。

ところで議会のリコールですが、名古屋では選管が一度、書名のかなり大きな部分が無効だと決めたのです。
それが見直したら、有効だったわけですが、このことは選管という組織の本性を象徴しています。
おかしな話ですが、日本ではすべての制度や仕組みは、現職を支援するようになっているのです。
つまり「お上」を守るためのものなのです。
もちろん「法制度」もそうです。
法は権力への歯止めだという説明もありますが、実際は法は秩序維持、つまり権力維持のためにあるのです。

自分が住んでいる自治体の首長選挙に関わるのは初めてですが、思っていた以上に権力は腐るものだということがよくわかります。
自治の仕組みを変えなければいけません、

20年前にリンカーンクラブで議論していたことが、ようやく少しずつ現実感を持ち始めたような気がします。
ただし、主役は若者でしょう。
1960年代のアメリカは失敗しましたが、2010年代の日本は成功するかもしれません。

そのために、我孫子市の市長選挙では40歳に若者を当選させたいと思っています。
我孫子市の方はもとより、ぜひ多くの人に応援していただきたいと思っています。

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■節子への挽歌1204:節子はいい先生でした

節子
今年も残すところ10日ほどになりました。
いつもこの頃は、節子が和室で年賀状を書いていたのを思い出します。
節子は一枚一枚、ていねいに書いていました。
年賀状を印刷してしまう私のやり方には否定的でした。
大変そうなので、せめて宛先だけでも印刷したらと提案しても、頑として受け付けませんでした。
節子は、手書きでなければ心が伝わらないといつも話していました。
相手のことを思いながらゆっくりと書くことが大切だと言うのです。
たしかに、ゆっくりでした。
ですから節子の年賀状書きは数日にわたっていました。
でも書いている時の節子は幸せそうでした。
今もその様子がはっきりと思い出せます。

むかしは私もそうでした。
年賀状が300枚くらいまでは節子と同じように1枚ずつ書いていました。
当時は節子と一緒に、版画やプリントごっこで、手づくり感も楽しんでいました。
しかしいつの間にか私は印刷型になってしまいました。
もちろん文章は毎年それなりに思いを込めましたが、1000枚を超えるとどうしても心は入れにくくなります。
節子と並んで年賀状を書いていると、節子が1枚仕上げる間に私は数十枚を仕上げていました。
私がやったのは、相手を思い出しながら1~2行の言葉を添えるだけでしたから。

節子は、そうした私のやり方には批判的でした。
そんな年賀状は出す意味がないとは言いませんでしたが、否定的でした。
今にして思えば、節子のやり方に見習うべきでした。
節子は、年賀状を書きながら、相手の人と心を通わせ合っていたのです。
この挽歌を書きだしてから、心を通わせながら文章を書くことの意味が少しわかってきました。
節子にとっては、そんなことなど当然のことだったのでしょう。

節子は私からたくさんのことを学びました。
修さんからいろんなことを教えてもらったと、よく話していました。
しかしそんな知識は瑣末なことなのです。
私が節子から学んだことは、本質的なことでした。
それに気づくのが少し遅すぎました。
どれほどたくさんのことを節子から学んだでしょうか。
最近ようやくそのことがわかってきました。

節子は私にとって、ほんとうにいい先生でした。

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2010/12/18

■節子への挽歌1203:現世とは違う世界への通路があるのかもしれません

節子
手帳が見当たりません。
昨日、帰宅して、少したってから、手帳がないのに気づきました。
直前に居た場所(そこで手帳を使いました)、みんなで探してもらいましたが、ありません。
手帳には予定が書かれているので、とても困っています。
ちょうど新しい年度に切り替えの途中だったの、私の名前も書いていませんから、もし道で落としたのであれば、拾った人も届けようがありません。
しかし、どう考えても、途中で落とす可能性はないのです。

実は帰宅してジャケットから手帳を引き出した感触が、手に残っています。
ですから家の中のどこかにあるのではないかと思えてなりません。
さほど広い家ではないので、ありそうな場所も、ありそうでない場所も含めて、何回も未練がましく探しました。
冷蔵庫の中まで探しました。
しかしありません。

昨夜、真夜中に目が覚めて、また手帳の感覚を思い出しました。
帰宅した時に手帳を持った感触がはっきりとあるのです。
にもかかわらず、なぜないのか。
朝、起きてまた徹底的に探しましたが、見つかりません。
どうしても「あきらめ」がつきません。

時々、節子が家にいるのではないかという気がすることがあります。
声をかけたり、探したりすることさえあります。
手帳を探しながら、そのことを思い出しました。

もしかしたらわが家のどこかに空間のひずみがあって、現世とは違う世界への通路があるのかもしれません。
手帳はもしかしたら、その穴に落ちてしまったのかもしれません。
どう考えても、あるはずのものがないのですから。
その通路が見つかったら、もしかしたら私も彼岸にいけるかもしれません。
あるいは節子が現世にやってくるかもしれません。

この年末の大掃除には、その通路を探すこともめざしたいと思います。

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2010/12/17

■節子への挽歌1202:幸せな死のために何が必要か

ご自宅で奥様を看取られた経験から、地域社会になにがあればいいと思われましたか、とある人に訊ねられました。
死生学に取り組まれている先生なのですが、そろそろ「死」に正面から向かっての議論をするべきではないかとお考えのようです。
そして在宅で死を迎える社会へ戻していきたいと思われているようです。

その方は以前から知り合っていた方ですが、節子が朝日新聞に投稿した「いいことだけ日記」が印象に残っていたそうです。
それから数年して、その投稿主の節子が私の伴侶で、「いいことだけ日記」を勧めたのが私だと知ったのだそうです。
世界はほんとうに狭いのです。

ところで、その質問に、私は正直、たじろぎました。
実は、私には節子を「看取った」という感覚がないのです。
そうか私は節子を看取ったのだ、と改めて認識しました。

次に思ったのは、なに一つ不満はない、ということでした。
死を迎えるために、何が必要でしょうか。
愛する人がそこにいればいいだけなのです。
しかし、そう言い切れる私たちは、とても幸せなのかもしれません。

死を支える仕組みは、たしかに大切かもしれません。
最近では、孤独死が問題になっています。
しかし、それらは「死に方」の問題ではなく「生き方」の問題です。
孤独死が問題なのではありません。
孤独な生き方が問題なのです。
問題設定を間違えると答えはみえなくなりますが、なぜかみんな孤独死を問題にします。

以前も書きましたが、医師はよく死を避けられない患者の家族に対して「死に方」が大切だと言いますが、とんでもありません。
当事者にとっては、死に方など考える必要はなく、あくまでも大切なのは「生き方」です。
「死に方」を問題にする社会は、私には壊れた社会に思えてなりません。
「死に方」を問題にする医師には、私は自らの生を預ける気にはなりません。

しつこいですが、大切なのは「生き方」です。
生き方がしっかりしていれば、孤独死など起ころうはずがないと、私は確信しています。
もちろん「自殺」も起こりません。
すべての根本は「生き方」なのです。

その方の質問に、私は「なにもありません」と答えましたが、質問が間違っていることに気づきました。
奥様が生きるために、地域社会になにがあったらよかったと思いますか、と訊かれたら、なにか思いついたかもしれません。
しかし、それはきっと、私たちの生き方に深くつながっているはずです。
そう考えながら、私たちの生き方はとてもいい生き方なのだと自賛したくなりました。
もちろんそういう生き方ができたのは、たぶん節子のおかげです。
感謝しなければいけません。

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2010/12/16

■節子への挽歌1201:夫婦はお互いに弱みを見せられる唯一の関係

節子
あなたは覚えていないでしょうが、10年ほど前の一時期、オープンサロンに来ていた星さんから先日、突然の電話をもらいました。
最初は、どの星さんか思い出せなかったのですが、話しているうちに思い出しました。
たしか栃木で起業した方でした。
その星さんが昨日、湯島に来ました。
お訊きしたら、なんと那須塩原から来てくださったそうです。
栃木といっても広いです。

当時のサロンは、実にさまざまな人たちが来ていたので、星さんとゆっくり話したことがなかったかと思います。
今回、いろいろと話してみて、星さんと私の考えがかなり似ていることに気づきました。
もっとも行動面では全くといっていいほど違うかもしれません。
星さんは企業を辞めて、那須塩原にご夫婦で移ったのですが、その大きな理由は「生き方」の問い直しにあったようです。
ところが気がついてみたら、それまでの東京住まいと同じような働き方をしていたことに最近気づいたのです。
そして私のところに「生き方さがし」の旅に来たというわけです。
いろいろと話しました。
星さんも思うところがあったようです。

ところで話のなかで、夫婦の関係が話題になりました。
星さんご夫妻はお2人ともそれぞれの仕事をしているようです。
それぞれが独立しているわけです。
あまり書いてしまうと星さんのプライバシーに関わりそうですが、いまはちょっと星さんのほうが苦戦しているようです。
しかし奥さんの助けは借りたくないと、考えているようです。

夫婦はお互いに弱みを見せられる唯一の関係ではないかと、私は思っています。
弱みは素直に解き放し、それを素直に受け容れれば、両者の間では、多くの場合、弱みは弱みでなくなり、むしろ強みに転化します。
節子との40年の夫婦関係で、そのことを私は実感しています。
そして、弱みを分かち合った夫婦は最強の存在になれます。
そして怖いものなど何もなくなるのです。
いや「がん」を除いて、というべきかもしれませんが。

そんな思いで、星さんといろいろと生き方も含めて話し合いました。
別れ際に、星さんにまた機会があったら来てくださいといったら、星さんが、今度は妻も連れてきたいです、と言いました。
その言葉で、涙が出そうになりました。

星さんは幸せな人です。そう思いました。
私は、那須塩原に節子を連れていけないのが、とても不公平な気がしました。

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■諫早湾排水門がようやく開くようです

諫早湾の排水門の5年間の開門を命じた福岡高裁判決について、菅首相は上告を断念する方針を固めたようです。
これにより判決が確定すれば、常時開門となる方向のようです。
はじめて菅さんは自分の考えを打ち出したようです。

手元に『市民による諫早開拓「時のアクセス」』という報告書があります。
諫早干潟緊急救済東京事務所が2001年4月に発表したものです。
友人がその活動に関わっていたので、読ませてもらいました。
調査に当たったのはボランティアメンバーです。
みんな明確な目的意識を持って、自腹で活動に参加していたときいています。
こうした人たちにで、私たちの生活は支えられているのです。

厚い報告書ですが、わかりやすく説得力もあります。
最後に有明海の再生シナリオが書かれていますが、それらの立案計画は、「情報公開の原則のもと、市民・農民・漁民を含む幅広い「円卓会議」において検討し、文字通りの「市民参画による有明海再生シナリオ」に仕上げることが提言されています。
残念ながらその後の諫早開拓はそういう方向には動かなかったように思います。

当時、私には長崎県の職員として、この問題にも関わっていた友人がいました。
彼ともこの問題について意見交換したことがありますが、残念ながら話せば話すほど亀裂が生じそうでしたので、話すのをやめてしまいました。
理をとるか情をとるか、この時には情をとってしまったのです。
その理由は、自分の目で諫早湾を見ていなかったからですが、いささか悔いが残っています。
どう考えても、諫早湾の排水門は愚挙以外の何ものでもありません。
お金儲けのために政治家と官僚と経済人が仕組んだことなのです。

残念ながらこうしたことは、今なお至るところで行われています。
財界の人たちは現場を知らない人ばかりですから、ただただお金が動けばいいのです。
経済の活性化が人々の生活を豊かにするなどという妄想を信じている人はいないと思いますが、そういう妄想を信じさせようという人ばかりなのです。

漁民は喜び、農民は反発する。
こういう対立構造をつくれば、政治家も財界人も、もちろん公務員も、仕事が増え、お金が入ってくるのです。
もちろんマスコミも、です。
この構造を壊さなければいけません。
その壊し方が、残念ながら私にはわかりません。
しかし、まあ諫早湾が少し元気になっていく展望が開けたことで、私は久しぶりに元気が戻ってきました。
書けずにいた時評を再開できそうです。

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2010/12/15

■節子への挽歌1200:節子がいない不幸

節子
今日は我孫子駅前の花壇を育てている花かご会の今年最後の作業日でした。
そこで、今度、市長選に立候補した坂巻さん をみんなに紹介したくて、一緒に挨拶に行きました。
坂巻さんは園芸学部出身で、花を活かしたまちづくりにも関心をお持ちなのです。
みんなとてもあたたかく迎えてくれました。
これも節子のおかげかもしれません。

花かご会に紹介する前に、自治会のみなさんにも応援してもらおうと、みなさんのご自宅を一軒一軒まわりました。
節子がいたらもっとうまく引き回せたでしょうが、それでもまあこの地区は近所づきあいもあるので、なんとかお引き回しできました。
それでもなんで私が坂巻さんをお連れしたのかちょっと戸惑われたかもしれません。
節子がいたらもっと効果的だったでしょうね。

夫婦には、それぞれの役割分担があるような気がします。
男女共同参画だとかジェンダー問題とか、いろいろな議論がありますが、私自身は夫婦の役割分担に大きな価値を感じます。
もちろん役割を固定させる必要はなく、夫婦によっては反対の役割分担関係になってもいいと思いますが、異性での役割分担で小さな社会をつくりだすという夫婦あるいは家族の仕組みは人が発明した最大の知恵のような気がします。
いまもよく、節子がいたらいいのにと思うことはよくあります。
近隣で付き合うにも、地域活動するにも、あるいは社会活動をするにも、一人だといろいろとハンディを感じます。

もちろん、単身の暮らしで活動している人もいるわけです。
そうした人に対しては、私のこうした考えは甘えかもしれません。
しかし、節子と一緒の生活と、いなくなって一人での生活を比べてみると、両者はいろんな意味で全くといっていいほど違います。
効果も効率も、2人単位での生活が抜群にいいのです。
でもこれは私たちの場合だけかもしれません。

夫婦が相互に力を削ぎ合っているような場合もないわけではないでしょう。
私たちには、とても考えられないのですが、そういう夫婦もあるようです。
そう考えていくと、私たちは実に幸せな夫婦だったのです。
しかし、それはいざ片方がいなくなった時には、実に不幸な夫婦になってしまうわけです。

神様は実に公平なのです。
大きな幸せは大きな不幸できちんとバランスするようにしているのですから。

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2010/12/14

■節子への挽歌1199:柳原和子さんに何かあったのでしょうか

この挽歌へのアクセスが今日はなぜかとても多いのです。
驚いて調べてみたら、「柳原和子」で検索してアクセスしている人が多いのです。
柳原さんに関して、今日、何かあったのでしょうか。

柳原さんにはとても思い出があります。
私は面識がないのですが、このブログが縁で、柳原さんからメールをもらい、柳原さんのライターではない心の揺れに触れさせてもらったのです。
節子のがんが発見される前から、柳原さんの「がん患者学」には共感を持っていました。
そして節子のがんが発見されてからは、それがさらに痛いほどにわかるような気がしてきました。
テレビで時々見る柳原さんは、いつも元気で強く見えました。
一緒にテレビを観ていた節子は、柳原さんの強さに、自分とは違う人だわ、と言っていました。
たしかに、私もそう感じていました。
でも個人的にもらうメールは、節子よりも弱々しく、さびしそうでした。
節子もそれを読んで親しみを感じたようでした。
もし節子が元気になったら、いつか柳原さんともお会いできそうだと思っていましたが、2人ともいなくなってしまいました。

柳原さんの訃報を知ったのは、節子が逝ってから半年ちかくたってからでした
その頃は、私自身がまだ生を実感できずにいた頃です。
柳原さんから頼まれたことがありますが、それに取り組む気力はありません。
これからも取り組むことはないでしょう。

それに、柳原さんの「がん患者学」は結局、最後まで読めませんでした。
柳原さんがまだ元気だった頃、何回も読み出すのだがいつも途中で読めなくなります、とメールしたら、柳原さんから、そうですよね、読めませんよね、と返事がありました。
その言葉に、改めて柳原さんの哀しさを感じた記憶があります。

ところで、今日は柳原さんがなにか話題になったのでしょうか。
まさか現世に戻ってきたのではないでしょうね。
柳原さんが戻ってきたのであれば、節子も戻ってくるかもしれません。
そうであればうれしいのですが。

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2010/12/13

■節子への挽歌1198:私の仕事好きが節子は不満でした

最近、仕事に追われています。
仕事といっても、頼まれての仕事ではなく、ほとんどが自分から買って出た仕事です。
節子がいたら、相変わらず仕事ばかりね、と笑われそうです。
節子は休日までもパソコンに向かって「仕事」をしている私が好きではなかったのです。
修さんには趣味がないの、とよく言っていました。
その言葉は私には心外でしたが、そういわれればそうかもしれません。
ともかく私はひとつのことに集中できないタイプです。
そういう意味では、趣味といえるようなものは何一つありません。

私は仕事が好きですが、特定の仕事にずっと取り組んでいることは苦手です。
次々と新しい課題がないと、すぐに飽きてしまうのです。
ですから、いつも複数の活動に取り組んでいます。
それも10種類くらい並行させていないと退屈するのです。
特定のテーマに立ち止まることができない性格なのです。

その私が、なぜ節子をずっと愛し続けられたのかは不思議な話です。
節子もそれをいつも不思議がっていました。
たしかに不思議です。
しかも、節子がいなくなっても、移れないのです。
節子にそれほどの魅力があったのでしょうか。
あるはずもありません。
なぜなのか。

要するに私が面倒くさがりだったからかもしれません。
人生を共にすることは、そんなに簡単にできることではないからです。
愛していたというよりも、他に選択肢がなかったからかもしれません。
節子はこの説明には喜ばないかもしれませんが、きっと納得はするでしょう。

それにしても、なぜこんなに時間がなくなってしまったのでしょうか。
余計な問題を引き込みすぎてしまいました。
節子の顔を思い出しながら、ばたばたしています。

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2010/12/12

■節子への挽歌1197:解けない難問

節子
最近、余裕がなくなってきました。
節子がいたらSOSを出していたでしょう。
自分の能力を超えて、いろんなことに関わりすぎています。
そのためゆっくりする時間がないのです。

昨日、心身が動かないと書きました。
心身が動かないのになんでそんなにいろんなことを引き受けて、時間破産になっているのか、奇妙に思う人もいるでしょう。
しかし、それは矛盾してはいないのです。
心身が動かないからこそ、何かをやっていないと全く動けなくなりそうなのです。
何かをやっている時には、たしかに心身は動くのです。
でも動かないものがある。
魂です。

今日、毎月やっている、ささえあいの交流会を行いました。
自殺未遂サバイバーを自称する吉田銀一郎さんが参加されました。
彼は自殺から立ち直った後、自らの使命感に突き動かされて、いろいろ活動をはじめました。
辛い中から、吉田さんは自らの魂にぶつかったのが立ち直りの契機だったようです。
そして動き出したのですが、魂の呪縛からまだ抜けられずにいるように思います。
それを少しずつ解きほぐしていかないといけない、などと私は偉そうに吉田さんを諭します。
ところが自らはどうでしょう。
明らかに吉田さん以上に魂が止まっている。
そんな気がします。
やはり自分のことが一番見えていないのです。

しかし最近は少し動きすぎかもしれません。
節子の残した庭の花木をゆっくりと見る余裕もないのですから。
時間の余裕ではありません。精神の余裕です。
誰かの問題に関わっていると気が休まるのですが、その問題から放れるとどさっと虚しさが押し寄せてきます。
この虚しさは一体なんなのでしょうか。

節子がいたら、いとも簡単に解いてくれるでしょう。
いつもそうでしたから。
しかし皮肉なことに、今回はその虚しさの源が節子の不在なのです。
それをどう解けばいいのか。
まさに解けない難問です。

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2010/12/11

■節子への挽歌1196:物とは無縁の生

節子
クリスマス商戦もはじまり、世の中は少し賑わいでいるような気がします。
不景気といいながらも、テレビは消費をあおっています。
我孫子ではなかなか実感できませんが、たまに都心を歩くと、なにやら華やかな感じです。

先日、有楽町を歩きながら、そういえば、この数年、これといった買物をしたことがないことに気づきました。
もちろん毎日の食材や日常着などは娘と一緒に買物に行くことはありますが、必需品ではないものに関しては、もう4年以上、買物をしていない気がします。
それは当然といえば当然のことで、私は一人で買物に行くことはこれまで皆無だったのです。
いつも節子と一緒でした。
それに、買物に行っても外食をしても、お金を払うのはいつも節子でしたから、私には財布は不要だったのです。
お金を出してくれる節子がいない今、買物ができないのは当然のことなのです。

しかし、買物をしない理由はそれだけではありません。
物欲というほど大げさではありませんが、何かが欲しいということがほとんどなくなったのです。
物への興味がなくなったのです。
収集していたフクロウの置物も、以前は節子に反対されても買っていましたが、いまは収集の意欲もありません。
魅力的なフクロウを見ても、欲しいという気がしないのです。

物だけではありません。
旅行も興味を失い、外食は全く興味なく、観劇やコンサートも誘われても行く気が起きません。
欲がなくなったわけではありませんが、心身が動かないのです。

彼岸が近づいているということと関係しているのかもしれません。
物質的な財産は彼岸へは持ち込めません。
体験はおそらく彼岸では無意味でしょう。
ですから今の私にはいずれも意味がないのです。
財産も体験も、節子がいたからこそ、私には意味がありました。
これは理屈ではありません。
なぜそうなのかは、自分でもわかりません。
しかし、間違いなく、それが実感なのです。

これが行き過ぎると、「生きること」さえ意味を失うのかもしれません。
しかし、生きることには、俗世的な意味とは別の次元で、深い意味があります。
最近は、このことがとてもよくわかってきました。

物とは無縁の生。
まだ十分に言葉では語れませんが、いつか書けるかもしれません。

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2010/12/10

■節子への挽歌1195:この3年に何かありましたか

節子
この数週間、歯が痛くて食事がなかなかできませんでした。
餓死してはいけないので、歯医者さんに行きました。
歯医者さんにまずは手当てをしてもらい、その後、改めて歯や歯茎の状況を調べてもらいました。
検査担当の方が代わったのですが、その人がなにやらつぶやきながら、ていねいに検査をしてくれました。
この歯医者さんはともかくていねいで基本から治癒してくれるのです。

検査を終わった後、カメラ映像を見せながら、その方がいいました。
3年前の状態とあまりにも違うのですが、この間、なにかありましたか。
最近、歯はきちんと磨いていますか。
検査中、首をかしげていた理由がわかりました。
たしかに写真を見ると3年前の状況と違います。
せっかく3年前に基本をしっかりとつくったのに、といわれました。

3年前のチェックの日付を見たら、2007年6月でした。
私の人生が一変する3か月前です。
心は必ず身体にも現れることがよくわかります。

なぜこうなったのかの理由はわかります、と答えました。
歯磨きもちゃんとしていないことも白状しました。
検査表をみたら、「赤点」でした。
困ったものです。

節子は再発する前に、友人の知り合いの歯医者さんに通って全部治していました。
闘病生活が始まったころ、歯を全部治しておいてよかったわと言っていました。
その言葉がとても心に残っています。
その治療した歯を使いきれなかったことがとても不憫でなりません。
実は、その思い出があるので、私は歯医者さんに行くのが辛いのです。

私自身は、それほど長生きをする予定もないのですが、今回、歯が痛いといかに大変かがわかりました。
それでこれからは少しきちんと歯磨きをしようと思います。
実は節子がいなくなってから、歯磨きは思い切り手を抜いています。
歯磨きだけではありません。
自分ではあまり意識はしていないのですが、生き続ける意欲が大きく低下しているのかもしれません。

歯の痛みはほぼなくなりました。
ようやく食事ができそうです。

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2010/12/09

■節子への挽歌1194:挽歌が取り持つ縁

節子
節子への語りかけの、この挽歌にも読者がいます。
その読者同士が金沢でお会いになったそうです。
mikutyanの日記の大浦静子さんとハートフル・ブログの一条真也さんです。
お2人とも、コムケアセンターの挽歌にも何回か登場しています。

大浦さんは今日のブログでこう書いています

出会いは奇跡
郁ちゃん、不思議なことが起こりました。 
一条真也のハートフル・ブログが縁で一昨日初めて知り合った一条真也さんと、もう出会えるなんて夢のようです
郁ちゃんというのは、大浦さんのお嬢さんです。
とても哀しいことに、大浦さんは数年前に郁ちゃんを見送ったのです。
そのことも前に書かせてもらいましたが、一条さんも一昨日、ご自分の挽歌で書かれています

一条さんと大浦さん、それぞれからメールをいただきました。
なにやら不思議な気持ちです。

大浦さんはこう書いてきました.

毎日ブログ拝見していますよ。
忙しそうなので、声もかけられないほどです!
一条さんが、今回のこと佐藤さんにお話したとおっしゃっていました。
一昨日初めてメールして、きょうはお会いできたのですから驚きです。
節子さんと郁代の仕掛けたるや、おそるべし!(笑)。
今度は一条さんと三人でお会いできたらいいですね。
最近、あまりにいろんなことを引き受けてしまい、時間破産に陥っています。
節子が元気だった頃はよくあることでしたが、節子を見送ってからはめずらしい状況です。
ですから挽歌や時評もなかなか書けずにいるのですが、私が書かなくとも、どこかで新しい物語が始まっているのです。

ちなみに、今日もまた2つのことを引き受けてしまいました。
ますますの時間破産です。
節子がいたらストップをかけてくれるのでしょうが、ここまできたら、本当に破産になるまでいってしまってもいいかなと言う気分なのです。
困ったものです。

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2010/12/08

■「見知らぬわが町」

■「見知らぬわが町」(2010年12月8日)
福岡でハーモニカのリサイタル・ツアーをやっていた西川さんから、9か所でのライブを無事完了したというお手紙をもらいました。
そのリサイタル・ツアーに関しては、西川さんのブログをご覧ください。
西川さんのハーモニカを聴きたい方はベストコレクションもあります
リサイタル・ツアーを通して、西川さんはさまざまな思いをもたれたようです。
西川さんからいただくメールに、西川さんの思いを感じることが少なくありません。
それも西川さんの人生すべてを感じさせる内容なので、いつも心に響きます。

ところで、そのお手紙に、12月10日の午後7時半から、NHK福岡放送局の開局80周年記念ドラマ「見知らぬわが町」が放映されるという案内がありました。
大牟田の三池を舞台にした感動的なドラマだそうです。
私の世代だと、大牟田の三池と聞いただけで、ある思いがこみ上げてきます、
いうまでもなく、大牟田は炭鉱で栄えた町です。
ドラマのストーリはNHKのサイトにありますが、テーマは家族です。
残念ながら放映は九州沖縄地域だけですが、来年は全国放映されるそうです。

30年ほど前に私も大牟田の三池を訪ねたことがあります。
海が見えるところから、この海に向かって穴が掘られているのだと説明を受けたのを覚えています。
私には大牟田という土地が持つ「記憶」が痛いほど伝わってきた記憶があります。
往時を偲ばせる施設などから、声が聞えてきたような覚えもあります。
会社を辞めて、大牟田か佐世保か北九州に転居しようかと思ったのは、大牟田を訪ねた時に思いついたことでした。
結局、女房も説得できずに、私も諦めましたが、その後、なぜか、佐世保、北九州、宇部と、かつては炭鉱で輝いた都市との付き合いがはじまり、いまもそれは続いています。

西川さんの手紙にこう書いてあります。

劇中で、俳優の小林勝也さんがハーモニカを演奏します。
当時の人々の暮らしの中で、ハーモニカがいかに大切な存在として生きていたかが伝わってくるような内容です。
もちろんまだドラマは見ていませんが、情景が伝わってきます。
全国放映される時に、ぜひ見ようと思います。

西川さんは、このドラマにハーモニカ指導と言う役割で関わられたそうです。
ですからきっと小林さんのハーモニカには西川さんの思いがこもっているはずです。
歴史が見えてくるだろうと思います。

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■節子への挽歌1193:意識は世界の投影

昨日の続きです。
昨日、挽歌を書いた後、少しずつ記憶を取り戻してきました。

節子の訃報は私の友人知人には限られた範囲でしか伝えませんでした。
節子は親しい人だけでのささやかな葬儀を望んでいたからです。
それに節子の友人であればともかく、私の友人に流すことは思いもつかなかったのです。
ところが葬儀の手伝いをお願いした友人があるメーリングリストに流してくれたのです。
そのメーリングリストの読者が来てくださっていたのです。
この名簿は私自身が作成したのですが、改めて名簿を見ると、私の友人知人もいろいろな人が来てくださっています。
いまさら何を言っているのかと言われそうで、お恥ずかしい限りです。

どうして知ったのかと思うような人もいます。
私が伝えなければ知らないだろう人もいます。
もしかしたら、私が連絡したのでしょうか。
そんなはずはありません。
今度会ったら、どうして知ったのか訊いてみようと思います。
名簿を見ていると、何だかとても奇妙な気になります。

お通夜の時、私は来てくださった方にしっかりと挨拶したくて、焼香を終わって退室するところに前向きに席をつくってもらい、娘たちと並んで座りました。
節子の友人は、私よりも娘のほうがよく知っていたので、娘に節子との関係を耳打ちしてもらっていました。
今から思えば、その中にたしかに私の友人たちがいたことを思い出しました。
ところがそうした記憶にどうもリアリティがないのです。
あの時、私はそこにいたのだろうかという気さえするのです。

節子を見送って、ただただおろおろしていただけではないのか。
お通夜が終わって、何人かの幼馴染たちと笑いながら冗談を言いあったことも思い出しました。
しかし、なぜそんなことができたのでしょうか。
それに、なぜ彼らはそこに来ていたのでしょうか。
近々会いますので、気いてみたいと思いますが、どうも不思議な感じです。
そういえば、居場所もなく歩いていた人もいました。
なぜ私は声をかけなかったのか。
いずれも、それが事実だったのかどうかわかりませんが、いろんなことが断片的に思い出されます。
そういえば、告別式の挨拶も異常でした。
なぜあんなに言葉がすらすら出てきたのでしょうか。

妻を見送っておろおろしている私がいる。
しかし同時に、しっかりと喪主を務めている私がいる。
そうした風景が、なにか他人事のように思い出されます。
そこにいるはずもない節子さえ、いるような記憶さえあります。

世界は、その人の意識の投影だといったのは、認知心理学社会のロッシュです。
私は、それに加えて、意識は世界の投影だと思っています。
あの2日間、私はもしかしたら彼岸に少し吸い込まれていたのかもしれません。
そしておそらく今もなお、その意識の延長上に私の世界はあるのかもしれません。

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2010/12/07

■節子への挽歌1192:消された記憶

節子
節子の葬儀にどなたが来てくれたのかどうか、覚えていない自分に気がつきました。
気づかせてくれたのは、ホスピタルアートの活動に取り組んでいる高橋雅子さんです。

高橋さんから一昨年の年末、毎年の活動報告のお手紙をもらいました。
そこにご両親を見送ったことが手書きで書かれていました。

昨年より、末期がんの父の介護が中心の生活でしたが、その父が亡くなり、続いて1か月後に母が心筋梗塞で急死してしまいました。
淡々とした短い文章ですが、そこに高橋さんの深い思いをなぜか感じました。
返事を書かなければ、と思いながら、どうしても書けませんでした。
妻を見送ったことを書いてしまうような気がしたからです。
書いて悪い理由はないのですが、なぜか書いてはいけないような気がしたのです。
彼女は私が妻を見送ったことを知らないだろうと思いこんでもいたのです。
高橋さんからの手紙はいつも机の上に置いたままでした。
しかし返事を書けないまま、1年が過ぎ、2年が過ぎようとしていた時、彼女がメーリングリストである案内を送ってきてくれました。
元気にご活躍されているようでした。
そのメールを見て、ようやく高橋さんにメールを書きました。

昨日、返信が来ました。

佐藤さんの奥さまのご葬儀に伺った際、
佐藤さんが話してくださった奥さまとの最後の日々のお話。
お花が大好きでいらした奥さまのお話。
そして「妻は私の生きる意味でした」というお言葉。
本当にいたたまれない気持ちで失礼してきたことを覚えています。
このあと、佐藤さんは一体どうされてしまうのだろう?と
不安にさえもなりました。
でも反面、これほどの深い愛情で結ばれたご夫婦というのは
何としあわせなのだろうか?とも思いました。
高橋さんは葬儀に来てくださっていたのです。
そして私の話まで聴いていた。
驚きました。
あわてて3年前の葬儀の名簿を見てみました。
たしかに高橋さんのお名前がありました。
いえ、高橋さんだけではありません。
私の記憶にない、いろいろな名前が出てきました。
なぜか私の記憶からすっぽりと抜けていたのです。
その理由がよくわからず、この2日間、頭が混乱していました。

今日、ある会のことを友人たちと話していたのですが、それがあったのが5年前だと友人たちはいうのです。
私には3年前くらいに感じていましたが、言われてみるとたしかに5年前でした。
その会からあるプロジェクトが始まっているのですが、節子を見送った前後の1年が私の頭の中から抜けているような時間感覚になっているのです。
5年前の話は3年前に感ずるわけです。

私の記憶の中で、時間の組み替えや記憶の消去が進んでいるのかもしれません。
まだなんとなく頭がすっきりせずに、不思議な気がしています。

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■節子への挽歌1191:銀ちゃんの魂

節子
最近、久しぶりの時間破産でブログを書く時間がなかなかありません。
パソコンに向かっても、山ほどたまっている宿題をしなければいけません。
肝心のお金をもらえる仕事も始めましたが、それをやる時間もありません。
節子が元気だった頃の状況に戻ってしまいました。
節子は、そうした私を見て、何で頼まれてもいないことを引き受けてきてしまうのといつも言っていましたが、困っている人を見たら、なぜか引き受けてしまうのです。
そして、「やるべきこと」からではなく「やりたいこと」から取り組むのも。私の小分です。
節子はいつも注意してくれていましたが、性分だから仕方がありません。
最近あまり体調がよくないのですが、昨夜も今朝もパソコンに向かって、作業をし続けていました。
そろそろ出かける時間なので、その前に挽歌だけ書いておきます。

昨日、自殺未遂サバイバーの銀ちゃんに会いました。
私が声をかけて湯島に来てもらったのです。
銀ちゃんといっても、若者ではなく72歳の男性です。
吉田銀一郎さんと言います。
実にドラマティックな人生を過ごしてきました。
自らの会社を成功させ、その成功の中で過労のためにうつになり、自殺を試み、生還し、離婚し、その体験から学んだことを社会に訴えていきたいと活動しています。
しかし、その活動の仕方があまりに素直すぎて、なかなか耳を傾けてもらえないでいるのです。
そういう人と出会ったら、耳を傾けないわけにはいかないでしょう。
本当に「自殺」の問題を解決したいのであれば、そこから始めなければいけません。

このテーマは本来は「時評」の話題ですが、挽歌にあえて書いたのは、話している時に銀ちゃんが涙を出したのです。
涙を誘ったのは、私が口にした「魂」という言葉です。
銀ちゃんの体験談のほとんどは、家族の話でした。
彼を支えているのは、なかなか会うこともままならないとはいえ、家族がいるということです。
しかし、自殺者の遺族がどれほどの辛さを経験するか、彼は身をもってそれを思い知らされます。
もしそれがわかっていたら、彼は自殺しなかったかもしれません。
家族のために自らの生命を絶つのか、家族のために自らの生命を維持するのか。
理屈では校舎に決まっていますが、現実にはなかなか難しい話です。
そうした話の底に、銀ちゃんの魂の遍歴を垣間見たのです。

銀ちゃんの話を聴きながら、ずっと節子のことを考えていました。
どこがどうつながるのか、まだよくわからないのですが、なぜか今回も節子の導きを感じました。
銀ちゃんの魂に、少し付きあうことにしました。
すぐに後悔することはわかりきっていますが、性分だから仕方ありません。
節子はきっと、修はかわっていないね、と笑っているでしょう。
こうして私の時間破産は収拾がつかなくなっていくのです。

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2010/12/06

■阿久根市竹原市長失職の無念さ

阿久根市の市長リコールが成立し、竹原さんは失職しました。
記者会見で、竹原さんは「市民の皆さんが、いろんな体験をする機会として前向きに考えたい」と語ったといいます。
まさに「いろんな体験」をしたことでしょう。
その言葉に、竹原さんの思いを感じます。

私は当初、竹原さんのやり方に傲慢さを感じていましたが、報道情報をきちんと読んだり観たりしているうちに、共感を覚えだしました。
名古屋の河村さんと同じく、まさに現れるべくして現れた人だと思います。
その河村さんも住民投票の署名運動で破れました。
そして市長を辞任し、多くの人の批判を受けています。
私は自認も含めてとても共感しています。
いずれの敗北の陰に、片山総務大臣の影を感じます。
片山さんにはいろんな意味で失望しました。

今回の事件も名古屋の事件も、さまざまな利権が動いているでしょう。
阿久根出身の人から少しお聴きしたところでは、経済活動をしている人は竹原不支持、弱い生活者は竹原支持の傾向があるようです。
もっとも一人だけからの話なので、たぶんにその人の価値観が含まれているでしょう。
しかし、生活という現場から考えていけば、竹原路線、河村路線、そして大阪の橋下路線になるはずです。

私たちは社会の常識の中で、できるだけ自分での思考をしないですむように生きています。
それは決して悪いことではありません。
すべての事象において、考えながら生きていたら、こんな長生きはできないでしょう。
朝起きたら顔を洗う、食事は3回、お店の商品はお金を払わないと自分のものにならない、こうしたことまで毎回自分で考えていたら身が持ちません。
しかし、そうした常識の中には危ういものもあります。
お上には異を唱えない、教育は学校で受けるもの、小さな自治体にも国と同じく有給の議員が必要だ、大学を卒業した人は賢く高給がとれる、専門家という人の言うことは正しい、こういう「常識」は私には大きな違和感があります。

話がずれそうですね。
話題は阿久根市でした。
阿久根市では1月に市長選挙がありますが、おそらくまた竹原さんが当選するでしょう。
竹原さんがやる気がなくなったり(なくなってもおかしくはありません)、竹原さんでは困る市外の人たちがお金をばらまかなければの話ですが。

この事件は決して阿久根市だけの話ではありません。
河村さんも言っているように、基本的に日本の統治構造が問われているのです。
竹原さんがもう少し戦略的に立ち向かえば、その真意はもう少しきちんと伝わったでしょうが、彼の言動はあまりに素直すぎるのかもしれません。
しかし、竹原さんが諦めないで活動を続けていくことを願っています。

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2010/12/05

■節子への挽歌1190:安楽死

節子
まだまだ精神が安定していないようです。
困ったものです。
ドストエフスキーの「罪と罰」をテーマにした話し合いの場に参加しました。
そこで、安楽死が少し話題になりました。
それが主題ではなかったのですが、学生たちが「罪と罰」を読んで、そこからいろいろな問題提起をしてくれたのです。
その前のセッション(テーマはソクラテスがなぜ法に従って死を選んだのかでした)で発言しすぎたので、発言を抑えていたのですが、安楽死の話がでたために、それが引き金になって発言してしまいました。
「罪と罰」の主人公は、誰の役にも立っていない金貸しの老婆を殺すのですが、その「誰の役にも立っていない」という言葉にも引っかかりを感じていました。
それでついついマイクを取ってしまったのです。
そして話し出したら急に感情がこみ上げてきて、過剰反応してしまったのです。
節子の、あの壮絶な闘病のことを思い出したのです。
節子もまた本当はその苦しみから抜け出たかったに違いありません。
それらしいことをほのめかしたこともありますが、どんなに苦しかろうと節子は死を望んではいませんでした。
自分のためにではありません。家族のため、私のためにです。
自分のためであれば、死を選ぶのは簡単なのです。

安楽死など絶対に認められないのです。
それに、誰の役にも立っていない人など、いるはずがありません。
勢い余ってまたNHKの「無縁社会批判」までしてしまいました。
話し終わった後に、いささか恥ずかしい気がしたほどです。
何を話しているかわからなくなってしまったからです。
私のことを知っている数名の人はともかく、ほとんどの人は私とは初対面でしたから、驚いたかもしれません。
学生たちは、おろおろしている大人の姿を見て失望したかもしれません。
私は間違いなく、おろおろしていたのです。

脳梗塞で生死の境界をさまよったことのある平田さんが隣にいました。
私の感情的な発言とは違って、彼は自分の体験を語りました。
そして、彼もまた安楽死をきっぱりと否定しました。
私と違って、実に説得力がありました。
これまで以上に平田さんが好きになりました。
同時に、これまで以上に自分が嫌いになりました。

節子
どうもまだ、精神が安定していないようです。
ちょっとしたことで暴発してしまいかねません。

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2010/12/04

■節子への挽歌1189:痛みのなかに身をおくこと

「患者が痛みのなかに身をおくことを覚えれば、痛みとの関係は劇的に変わる。痛みを受け入れることで意識が変わり、『痛み』ではなく、ただの感覚となって、不快であっても、それに囚われ、追い出そうとするのではなく、意識のなかで、ありのままに受け入れられるようになるからだ。たいてい、治そうとしなくても、時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」
アメリカの医師で瞑想家のカバット・ジンの言葉です。 私の生き方や考え方にとてもなじむ発想でした。 しかし、節子を見送ってから、この言葉をなぜか忘れていました。 それほどの余裕がなかったからかもしれませんが、「時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」ということに抗っていたのかもしれません。 しかし、最近また、この言葉を思い出しました。

節子を見送ってから、私はふたつに分かれているような気がします。
節子を失って嘆き悲しんでいる私と、その私を見て悲しんでいる私です。
いずれも悲しんではいるのですが、かなり違う悲しみです。
前者においては悲しみがまさに生きることのすべてですが、後者においては悲しみはただただ悲しいだけの話です。
これでは違いが分かりにくいと思いますが、繰り返せば、前者は悲しむことで心身が満たされるのですが、後者は不安だけが残ります。
自分でもよくわかっていないので、説明がうまくできませんが、2人の私がいることだけは確信できます。

しかしその2人の私が、最近、合体してきているような気がします。
それがもしかしたら、カバット・ジンがいう「時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」ということかもしれません。

今日もさわやかな秋晴です。
青い空を見ているといろんなことを思い出します。
学生の頃から青い空を見ていると、私はそこに吸い込まれそうな気がします。
空を見ていると、何もかが瑣末に感ずるのです。
そして、何も変わっていないのではないかとつい思います。
階下で節子が洗濯物を干しているような、そんな気がしてなりません。

私も元気に、その節子に声をかけて、今日の集まりに出かけましょう。
またたくさんの人に会える1日になりそうです。

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2010/12/03

■節子への挽歌1188:未来の思い出

節子
昨日から今日まで軽井沢で合宿でした。
幸いに軽井沢には節子と一緒の思い出が少ないのですが、逆にそのことで節子を思い出すことも多いのです。
節子は病気になってから、ふたりの思い出をできるだけたくさんつくりたいといっていましたが、思い出があまり好きでない私は、あまり積極的には対応していなかったかもしれません。
わざわざ作らなくても、私たちの思い出は山のようにあるのですから。
このあたりも、今から思えば、私は節子の気持ちを十分には察していなかったのです。
身勝手な伴侶としかいいようがありません。
節子はそれを許してくれるでしょうが、不憫さを感じます。

それはそれとして、軽井沢には一緒に来たことがないのに、なぜ節子を思い出すかです。
節子がもし元気だったら、間違いなく2人でここに来たでしょう。
そう思うからです。
軽井沢だからではありません。
観光地に行くと、必ずといっていいほど、そういう思いがわいてきます。
そして、そこに節子を感じてしまうのです。
感じのいいレストランがあると、節子だったらこの店を選ぶだろうとか、小物雑貨のおしゃれなお店があれば節子に待たされるだろうなとか、ついつい思ってしまうのです。
私が好きそうなお店があれば、節子も誘って入るだろうなとも思いますが、一人では入る気は起きません。
節子がいないのに、そんな身勝手さは許されませんし、一人で入っても楽しくもありません。

だから観光地やおしゃれなお店があるようなところには行きたくないのです。
そこに現実ではない「思い出」を見てしまうからです。
節子は、過去の思い出だけではなく、未来の思い出までも残していったのです。
どこに行っても、節子との思い出があるのです。
実現されるはずもない「思い出」が。

季節はずれの軽井沢は、人の姿もまばらでした。

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2010/12/02

■節子への挽歌1187:無彩色の喪中はがき

年賀欠礼の喪中はがきが届きます。
はがきの文面は事務的なものが多いのですが、この1枚1枚のそれぞれに、さまざまな物語があるのだなとこの頃、よく思います。

私は事務的な喪中はがきを出したことがありません。
いつも自分の文章で、その小さな物語を書いていました。
それを読んだ人から返事をもらったこともあります。
父を見送った時のハガキは、同じ体験をした人を少しだけ元気づけました。
そしてその人からの手紙がまた、私を少し元気づけてくれました。

節子を見送った年の年末には、節子と連名でお手紙を出しました
いまその文面を読み直してみると、いささかの気恥ずかしさもありますが、その時の私の正直な気持ちだったことは間違いありません。

この数年、私は年賀メールを基本にしたため、年賀状は出してもせいぜいが100通くらいです。
それが定着したせいか、年賀欠礼のハガキも今年は少なくなりました。
薄墨の暗いイメージの喪中ハガキは、どうも好きになれません。
故人への思いを感じさせるには、あまりに感情抑制的です。
何枚かのはがきを見ながら、そしてその奥にある物語への思いを馳せながら、そんな気がしてきました。
死への物語は、確かに悲しくさびしいですが、決して無彩色の世界ではないのです。

喪中のお正月は、それでなくとも寂しいものです。
年賀はともかく、はがきをいただいた方には、年明けに思いを込めた手紙を書こうと思います。
もし身近な人を見送った方が近くにいたら、ぜひ思いを込めたお手紙やメールを出すことを考えてもらえると、私もうれしいです。

余計なお世話ですみません。

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2010/12/01

■節子への挽歌1186:「夜がこんなに暗いとは」

最近、また真夜中によく目が覚めます。
以前も書きましたが、真夜中なのになぜか明るいのです。
遮光カーテンをきちんと閉めていないのが理由なのかもしれませんが、節子がいなくなってから、なぜか夜の暗さを感じなくなったのです。

私は真っ暗でないと眠れないタイプでした。
一方、結婚した頃の節子は少し明るくないと眠れなかったのです。
私は就寝前にほんの少しだけですが読書をする癖がありました。
節子の横で私が本を読んでいると、その灯りの中で節子は安心して眠れると言いました。
眠っている節子の横で本を読むのが、私も好きでした。
そんな、とても幸せな時間も、もう体験することはありません。
眠る前に本を読む習慣も、最近はなくなってきました。

節子と結婚してから、真っ暗でなくとも私も眠れるようになりました。
となりに節子がいることが、その理由だったと思います。
最近はむしろある程度明るい方が安心して眠れるようになっています。
やはりこのことからも、節子が私の心身に入り込んでいるような気もします。

昨夜、夜中に目が覚めて、思い出したことがあります。
ジョン・ウェインが監督・主演した「アラモ」という映画があります。
そこに時々思い出す場面があります。
R・ウィドマーク扮するジム・ボウイが妻の死を知らせる手紙を読む場面です。
そこでボウイはこう言います。
「夜がこんなに暗いとは」
大学の頃、その映画を観て以来、ずっと気になっている言葉です。
愛する人を失った時、人は暗闇に投げ込まれる。
とまあ、そんな受け取り方をしていたのです。

ところが節子がいなくなって感じたのは、夜の明るさです。
ボウイと違って、私の思いは「夜がこんなに明るいとは」なのです。
たいしたことではないような気もするのですが、私にはとても気になることなのです。

笑われそうですが、ちょっと「黄泉(闇)の国」に近づいたのかもしれない。
そんな気がしてならないのです。
ちなみに私はいつも寝室のドアを開けて寝ているのですが、もしかしたら夜になると彼岸につながるのかもしれません。

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■人によって世界はまったく違って見えている

北朝鮮の民間人攻撃には驚きました。
どう考えても理解できません。
北朝鮮は、そういう国だと思えば不思議に思うこともないのですが、今回の事件に関して言えば、どうも心に引っかかるのです。
暴挙というには、かなり限界を超えているからです。

市川海老蔵さんの殴打事件も同じように腑に落ちない事件でした。
しかしその後の報道で、かなり納得できるようになりました。
北朝鮮の事件と違って、当事者に関する情報は同じ条件でわかっていくでしょう。
海老蔵さん側の話だけでは、北朝鮮の事件と同じく、殴打した人はとんでもなく悪い人だと非難されるでしょう。
しかし事実がわかってくると、悪いのはもしかしたら海老蔵さんという感じもします。
少なくとも、そんなに不思議な事件ではなくなるはずです。

つまり、一方の情報だけでは事実は見えてこないということです。
一方から見ると不思議な事件も、双方から見れば何と言うことのない事件なのかもしれません。
情報源には注意しなければいけません。

問題はもう一つあります。
「ウィキリークス」が話題になっています。
創設者は犯罪者扱いです。
多くの人は機密を公開することは悪いことだと思うでしょう。
機密として隠すことが悪いことだと思う私とは全く評価基準が違いますが、これは評価者の問題です。
同じ事実も、評価者の価値基準で正反対に見えるということです。
世界は人によってまったく違って見えているのです。

そのことを私たちはいつも意識していなければいけません。
マスコミの報道が、最近、画一的になっているのがとても気になっています。

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■節子への挽歌1185:ギンモクセイ

節子
玄関のギンモクセイが花をつけ出しました。
目立たない花なので気がつきませんでしたが、娘から教えてもらいました。
Gin3

このギンモクセイは転居前の家の玄関にあったものだそうです。
私はそもそもギンモクセイという花を知らなかったのですが、娘が良い香りがしているね、と言ったので、玄関にキンモクセイなどあったかなと質問したら、ギンモクセイだったのです。
もっとも節子はギンモクセイがあまり好きではなかったようですね。
節子も花の好き嫌いがありましたから、好きでない花は目立たないところに置かれていました。
私自身はそうした差別待遇は好きではありませんでしたが、わが家の花の管理者は節子でしたから仕方がありません。
玄関が目立たないわけではありませんが、玄関の死角に置かれていました。
私はヒイラギかと思っていましたが、よく見ると違うものでした。

ギンモクセイの花言葉は「初恋」とか「気を引く」ということだそうです。
いかにも地味に咲いているギンモクセイには少し意外な花言葉ですが、ネットで調べたら「ギンモクセイ」という歌まであることを知りました。
歌詞を読んだら、初恋ではなく、心変わりした人を恋する歌でした。
歌詞の一部が心に突き刺さりました。

声が聞きたくなったって
喜ぶ顔が見たくたって
もう帰ってこないのに笑顔だけ
悲しいくらい浮かぶの

急に節子と最初に会ったころのことを思い出しました。
わが家の花は、もしかしたら彼岸に行った節子とつながっているのかもしれません。
気のせいか、ギンモクセイの向こうに節子の笑顔が見えたような気がしました。

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