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2010/12/22

■節子への挽歌1207:祈りとは心身を任せること

昨日の続きです。

祈りについて、最近、この挽歌で書いたことを思い出しました。
まさに「うつし世の静寂に」をみた直後に書いていました。
そこには「祈りとは、ふたつの世界をつなぐもの」と書かれていました。
ふたつの世界とは、いうまでもなく、彼岸と此岸です。
その意味では、この挽歌は、そもそもが祈りかもしれません。

にもかかわらず、昨日は私自身に「祈り」が欠けていることに気づかされたのですが、それはこの挽歌に十分な思いがはいっていないためなのかもしれません。
昨日から時間の合間に「祈り」について考えていたのですが、祈りとは心身を任せることではないかという気がしてきました。
では誰に心身を任せるのか。
たぶん誰にでもなく、ただただ心身を投げ出して、任せるのです。
言い換えれば、それは「捨てる」ことかもしれません。
「心身を解放する」と言ってもいいでしょう。
ではどこに捨てるのか、何から解放するのか。
こうして思考はどんどん進んでいきます。

しかし、さきほど、前に書いた記事のことを思い出したのです。
「祈りとは、ふたつの世界をつなぐもの」
読み直してみました。
すっかり忘れていましたが、すんなりと心身に入ってきます。
まあ自分で書いたことですから、それも当然の話でしょうが。

その2つの話をつなげると、こうなります。
彼岸と此岸の狭間に、自らの心身を投げ出して、自らを空しくする。
なんだかすっきりしますね。

現世の悩ましさや煩わしさも、彼岸への憧憬も不安も、すべてが消えてしまいます。
とここまで書いて、また思い出したことがあります。
これは明日に回します。
期待していただくほど、たいしたことではありませんが。

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