■節子への挽歌1212:愛と執着
節子
寒くなりました。
今年はなかなか時間に余裕ができません。
自宅の大掃除も目処がたっておらず、ましてや湯島の掃除は年を越しそうです。
なぜこんなに時間がないのか。
なんでもかでも、節子を理由にするように思われるかもしれませんが、これは間違いなく節子の不在のせいだろうと思います。
なぜかといえば、節子がいればこそ、自分の時間をつくる意識が働きましたが、いまはそういう意識が働かないのです。
基軸がないと人は流れに身を任せてしまうもののようです。
その時間のないなかを、かなり難解な本を読んでいます。
フランシスコ・ヴァレラの「身体化された心」です。
1991年に出版された本ですが、ずっと気になっていた本です。
ヴァレラはオートポイエーシス論を言い出した一人ですが、その視点で社会や組織を見ると新しい視野が開けてきます。
私のこの15年の発想の根底にあるのが、このオートポイエーシス論です。
日本広報学会で話をさせてもらったことがありますが、残念ながら反応はゼロでした。
それでその学会には見切りをつけて辞めました。
まあそれほどある意味では私の発想の基本になっています。
といいながらも、実はきちんとは理解できていないのです。
それで気になっていたヴァレラを読み出したのです。
時間がない時こそが、難しい本を読む時だというのが私の考えです。
さまざまなことをやっている時は、心身が活性化しているから、本の吸収力が高まるのです。
ところがこの本はあまりに難解で、なかなか進みません。
これほど歯がたたない本は久しぶりです。
何となくわかるようで、わからないところが多いのです。
もう読みはじめて1週間は立ちますが、今日、やっと半分ほど読み進んだのですが、そこに仏教の縁起の話が出てきたのです。
そして、愛と執着に関する記述が出てきました。
愛(渇望)からすぐに生じるのは執着/固執である。そして、愛は輪廻においてきわめて重要な結節点になっていて、ここで覚知した人は解脱できると書かれています。
この文章に出会ってから、また前に進めなくなりました。
この文章の前後に出てくる記述が、あまりに今の私にぴったりなのです。
おかしな言い方ですが、もしかしたらやっとオートポイエーシス論が理解できるかもしれません。
これも節子の導きでしょうか。
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