■節子への挽歌1188:未来の思い出
節子
昨日から今日まで軽井沢で合宿でした。
幸いに軽井沢には節子と一緒の思い出が少ないのですが、逆にそのことで節子を思い出すことも多いのです。
節子は病気になってから、ふたりの思い出をできるだけたくさんつくりたいといっていましたが、思い出があまり好きでない私は、あまり積極的には対応していなかったかもしれません。
わざわざ作らなくても、私たちの思い出は山のようにあるのですから。
このあたりも、今から思えば、私は節子の気持ちを十分には察していなかったのです。
身勝手な伴侶としかいいようがありません。
節子はそれを許してくれるでしょうが、不憫さを感じます。
それはそれとして、軽井沢には一緒に来たことがないのに、なぜ節子を思い出すかです。
節子がもし元気だったら、間違いなく2人でここに来たでしょう。
そう思うからです。
軽井沢だからではありません。
観光地に行くと、必ずといっていいほど、そういう思いがわいてきます。
そして、そこに節子を感じてしまうのです。
感じのいいレストランがあると、節子だったらこの店を選ぶだろうとか、小物雑貨のおしゃれなお店があれば節子に待たされるだろうなとか、ついつい思ってしまうのです。
私が好きそうなお店があれば、節子も誘って入るだろうなとも思いますが、一人では入る気は起きません。
節子がいないのに、そんな身勝手さは許されませんし、一人で入っても楽しくもありません。
だから観光地やおしゃれなお店があるようなところには行きたくないのです。
そこに現実ではない「思い出」を見てしまうからです。
節子は、過去の思い出だけではなく、未来の思い出までも残していったのです。
どこに行っても、節子との思い出があるのです。
実現されるはずもない「思い出」が。
季節はずれの軽井沢は、人の姿もまばらでした。
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