■節子への挽歌1211:イルミネーションのない年末
節子
今年のわが家には、例年のようなイルミネーションはありません。
少しさびしい気もします。
年末に来て、みんな忙しくなってしまい、それどころではなかったのです。
節子はイルミネーションが好きでした。
私はあまり好きではありませんでした。
私の生活信条に反するからです。
でも節子がイルミネーションを飾ることには反対はしませんでした。
人にはそれぞれの生き方があり、夫婦といえどもお互いの好みは大切にしなければいけません。
しかし、イルミネーションに関しては、いまでもちょっと後悔していることがあります。
星の形のイルミネーションを節子が買おうとした時に私が反対したことです。
私には、いささか野暮ったく思えたので反対したのですが、その後、いろいろと他のお店を探しても、いいものがなかったので、諦めてもう一度そのお店に買いに行ったら、売り切れていたのです。
たいしたことではなく、節子もさほど欲しがっていたわけではないのですが、ずっと心に残ってしまいました。
そういう「瑣末な記憶」が、心をつつきます。
自虐趣味と思われるかもしれませんが、決して「自虐」ではなく、思いを通じ合った記憶なのです。
昨年は娘が一部のイルミネーションを飾りましたが、その娘たちも今年はいろいろと忙しそうです。
材料は出してあるのですが、飾らないままにクリスマスも終わってしまいました。
節子はクリスマスのイルミネーションに限らず、季節にあったちょっとした飾り付けが好きでした。
それに気づいて、心がホッとしたり、季節を思い出したり、節子のそうした遊び心が私は大好きでした。
その価値はよくわかっていますが、私にはそれができません。
人にはそれぞれできることとできないことがあります。
そのことが最近よくわかってきました。
たぶん私たちは、気づかないままに、お互いを支え合う関係になっていたのです。
節子がいなくなって、私の世界が変化してきているのは、そのせいだろうと思います。
こうして、人は変わっていくのでしょうか。
環境の変化と自己意識の変化にはタイムラグがあるようで、相変わらず違和感のある世界に投げ込まれたような思いから抜けられずにいるのです。
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