■節子への挽歌1216:希望に感謝して生きる
節子
節子のいないまま、また1年をなんとか乗り越えました。
大晦日の夜になると、いつもとはとがって、節子のいない寂しさが全身を覆うような気がします。
節子がいた時に、幸せな年越しは、もう2度とやってこないでしょう。
そしてもう数時間で、新しい年が始まります。
今年は年末になって、ユカが肺炎になったので、初日は一人で見ることになるでしょう。
昨年の元旦はどんな気持ちだったのだろうかとホームページを調べたら、次のように書いていました。
自分で書いた文章にもかかわらず、何回も読み直してしまいました。
今年最後の挽歌は、その文章を再掲することにしました。
今の私の気持ちにとてもぴったりするからです。
新しい年が始まりました。まもなく、節子を見送ってから4回目の新しい年がはじまります。
私に生きる意味を与えていた妻を見送ってから3回目の新しい年です。
妻への思慕の念は高まりこそすれ弱まることはありませんが、みなさんからは元気になってよかったとよく言われるようになりました。
確かに元気にはなりました。
「希望を確信するのではなく、希望に感謝して生きたい」
これが昨年の年初の思いでした。
希望に感謝するとはわかりにくい言葉ですが、要するに生きていることに感謝するということです。
生きていることに感謝する「お返し」は、自分の生が他者に意味を与えることかもしれません。私にできることは何か。それが昨年の課題でした。
少しは他者のためになったでしょうか。それはわかりません。
しかし今年も、自分ができることは何だろうかと、会う人ごとに考えながら生きていこうと思います。
それこそが、生きる意味を取り戻し、希望が見えてくる道なのかもしれません。
そして、時代の岐路といわれる現在、まさにその生き方が求められているようにも思います。
みなさんは、人生の意味をどうお考えですか。
平安がもっともっと広がりますように。
2010年1月1日
佐藤修
まだ希望は見えてきませんし、生きる意味も取り戻せずにいますが、それがなくても平安は得られることを学びました。
節子と毎日会話しているおかげかもしれません。
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