■節子への挽歌1206:祈り
節子
また夜明けに目が覚めました。
なぜかわからないのですが、急に、私の今の生き方に何かが欠けているような気がしました。
なぜそんなことを考えたのか、わかりませんが、時々、夜中に誰かから問題を与えられたような感じで、目が覚めるのです。
その時はかなり深い思索ができて満足するのですが、その後、必ずといっていいほど、また眠ってしまい、起きると思い出せません。
問題だけは思い出せるのですが。
今朝の思索での結論は、私に欠けているのは「祈り」だということだったような気がします。
節子には「祈り」がありましたが、私には「祈り」がないのではないかというようなことを考えていたような気がします。
先日観た映画「うつし世の静寂に」のテーマは「祈り」でした。
かつては人々の暮らしの根底に祈りがあったというのです。
とても納得できます。
昨今は「祈り」があまりにもありません。
そして私自身は、それなりに「祈り」を意識して生きてきた思いがありました。
しかし、本当に私には「祈りのこころ」があったのか。
節子は寝る前に感謝の言葉を口にして祈っていました。
節子が病気になってからは、私も隣で同じように祈りました。
節子は時々、言いました。
修の祈りにはこころがこもっていない、と。
決してとがめるような言い方ではなく、節子らしく笑いながらの好意的な言い方でしたが。
しかし、困ってからの祈りは打算以外の何ものでもないのかもしれません。
「祈り」がないのは、私だけではありません。
社会から「祈り」が失われつつある、そんな気がします。
だからこそ、祈らなければいけません。
しかし、「祈る」とはどういうことでしょうか。
今朝、目覚める前にはひとつの結論に達していたはずですが、どうしても思い出せません。
夢の世界と現実のこの世界の中間に、彼岸と此岸とをつなぐような、夢現(ゆめうつつ)なもうひとつの世界があるような気がします。
その世界ではさまざまな呪縛が解かれて、人はみな哲学者になり、世界が限りなく見えてくるのかもしれません。
その知恵を、現世に持ち込めないのが残念です。
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