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2010/12/05

■節子への挽歌1190:安楽死

節子
まだまだ精神が安定していないようです。
困ったものです。
ドストエフスキーの「罪と罰」をテーマにした話し合いの場に参加しました。
そこで、安楽死が少し話題になりました。
それが主題ではなかったのですが、学生たちが「罪と罰」を読んで、そこからいろいろな問題提起をしてくれたのです。
その前のセッション(テーマはソクラテスがなぜ法に従って死を選んだのかでした)で発言しすぎたので、発言を抑えていたのですが、安楽死の話がでたために、それが引き金になって発言してしまいました。
「罪と罰」の主人公は、誰の役にも立っていない金貸しの老婆を殺すのですが、その「誰の役にも立っていない」という言葉にも引っかかりを感じていました。
それでついついマイクを取ってしまったのです。
そして話し出したら急に感情がこみ上げてきて、過剰反応してしまったのです。
節子の、あの壮絶な闘病のことを思い出したのです。
節子もまた本当はその苦しみから抜け出たかったに違いありません。
それらしいことをほのめかしたこともありますが、どんなに苦しかろうと節子は死を望んではいませんでした。
自分のためにではありません。家族のため、私のためにです。
自分のためであれば、死を選ぶのは簡単なのです。

安楽死など絶対に認められないのです。
それに、誰の役にも立っていない人など、いるはずがありません。
勢い余ってまたNHKの「無縁社会批判」までしてしまいました。
話し終わった後に、いささか恥ずかしい気がしたほどです。
何を話しているかわからなくなってしまったからです。
私のことを知っている数名の人はともかく、ほとんどの人は私とは初対面でしたから、驚いたかもしれません。
学生たちは、おろおろしている大人の姿を見て失望したかもしれません。
私は間違いなく、おろおろしていたのです。

脳梗塞で生死の境界をさまよったことのある平田さんが隣にいました。
私の感情的な発言とは違って、彼は自分の体験を語りました。
そして、彼もまた安楽死をきっぱりと否定しました。
私と違って、実に説得力がありました。
これまで以上に平田さんが好きになりました。
同時に、これまで以上に自分が嫌いになりました。

節子
どうもまだ、精神が安定していないようです。
ちょっとしたことで暴発してしまいかねません。

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