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2010/12/23

■節子への挽歌1208:いのちの大きな循環

私が天平時代の人たちの声を聞いたのは、高校3年の春でした。
修学旅行で奈良の薬師寺の薬師三尊を拝観している時でした。
なぜか牛車の音が聞こえ、人々のざわめきが聞こえたような気がしたのです。
それは目の前の薬師如来から聞こえてきました。
その時に、仏には時代を超えたたくさんの人たちの祈りが込められていると実感したのです。
以来、仏像が好きになりました。
そこにはさまざまな時代を誠実に生きた人たちの祈りが結集しているからです。
それこそがもしかしたら、虚空蔵への、あるいは彼岸への入り口かもしれません。

祈りによって解放された心身はどこにいくのか。
そうしたあまたの祈りが具象化したひとつが仏像かもしれません。
仏師の西村さんが、仏像は彫るのではなく、姿が現れるのをただたすけるだけだ、というようなことをお話しになったのを聞いたことがあります。
それを聞いて、私も試みましたが、手は動きませんでした。
節子からは笑われました。
しかし、やはりあの時は、祈りがなかったのです。

毎朝、節子の位牌とわが家の大日如来を前に、般若心経をあげています。
それと同時に、節子への感謝と、誰にでもない、そして内容もない、「祈り」をあげます。
時には、誰かの名前や顔を思い出しながら、時にはイラクの映像を思い出しながらですが、ただただ無為に祈ることもあります。
こうした「祈り」が、いつの日か、なにかの形へと具象化していくのかもしれません。
そして、その具象化したものから、私たちは大きな安堵や平安を受け取るのです。
時空間を超えた、いのちの大きな循環を感じます。

節子に向いて、私が祈るとき、私の背後で節子が祈っている。
そんな気もします。
祈りは、ふたつの世界をつなぐだけではないのです。
大きな「いのちの輪」をまわしているのかもしれません。

私に欠けていたのは、「祈り」ではなかったようです。
祈りをする自らを消し去ることだったのです。
止観を超えなければいけません。

メルロ=ボンティは、「世界は主体から分離しえないが、この主体とは世界の投影に他ならない。そしてまた、主体も世界から分離しえないが、この世界も主体そのものが投影する世界なのである」と述べています。
この言葉の意味が、最近少しわかってきたような気がします。

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