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2010/12/08

■節子への挽歌1193:意識は世界の投影

昨日の続きです。
昨日、挽歌を書いた後、少しずつ記憶を取り戻してきました。

節子の訃報は私の友人知人には限られた範囲でしか伝えませんでした。
節子は親しい人だけでのささやかな葬儀を望んでいたからです。
それに節子の友人であればともかく、私の友人に流すことは思いもつかなかったのです。
ところが葬儀の手伝いをお願いした友人があるメーリングリストに流してくれたのです。
そのメーリングリストの読者が来てくださっていたのです。
この名簿は私自身が作成したのですが、改めて名簿を見ると、私の友人知人もいろいろな人が来てくださっています。
いまさら何を言っているのかと言われそうで、お恥ずかしい限りです。

どうして知ったのかと思うような人もいます。
私が伝えなければ知らないだろう人もいます。
もしかしたら、私が連絡したのでしょうか。
そんなはずはありません。
今度会ったら、どうして知ったのか訊いてみようと思います。
名簿を見ていると、何だかとても奇妙な気になります。

お通夜の時、私は来てくださった方にしっかりと挨拶したくて、焼香を終わって退室するところに前向きに席をつくってもらい、娘たちと並んで座りました。
節子の友人は、私よりも娘のほうがよく知っていたので、娘に節子との関係を耳打ちしてもらっていました。
今から思えば、その中にたしかに私の友人たちがいたことを思い出しました。
ところがそうした記憶にどうもリアリティがないのです。
あの時、私はそこにいたのだろうかという気さえするのです。

節子を見送って、ただただおろおろしていただけではないのか。
お通夜が終わって、何人かの幼馴染たちと笑いながら冗談を言いあったことも思い出しました。
しかし、なぜそんなことができたのでしょうか。
それに、なぜ彼らはそこに来ていたのでしょうか。
近々会いますので、気いてみたいと思いますが、どうも不思議な感じです。
そういえば、居場所もなく歩いていた人もいました。
なぜ私は声をかけなかったのか。
いずれも、それが事実だったのかどうかわかりませんが、いろんなことが断片的に思い出されます。
そういえば、告別式の挨拶も異常でした。
なぜあんなに言葉がすらすら出てきたのでしょうか。

妻を見送っておろおろしている私がいる。
しかし同時に、しっかりと喪主を務めている私がいる。
そうした風景が、なにか他人事のように思い出されます。
そこにいるはずもない節子さえ、いるような記憶さえあります。

世界は、その人の意識の投影だといったのは、認知心理学社会のロッシュです。
私は、それに加えて、意識は世界の投影だと思っています。
あの2日間、私はもしかしたら彼岸に少し吸い込まれていたのかもしれません。
そしておそらく今もなお、その意識の延長上に私の世界はあるのかもしれません。

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