■節子への挽歌1189:痛みのなかに身をおくこと
「患者が痛みのなかに身をおくことを覚えれば、痛みとの関係は劇的に変わる。痛みを受け入れることで意識が変わり、『痛み』ではなく、ただの感覚となって、不快であっても、それに囚われ、追い出そうとするのではなく、意識のなかで、ありのままに受け入れられるようになるからだ。たいてい、治そうとしなくても、時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」アメリカの医師で瞑想家のカバット・ジンの言葉です。 私の生き方や考え方にとてもなじむ発想でした。 しかし、節子を見送ってから、この言葉をなぜか忘れていました。 それほどの余裕がなかったからかもしれませんが、「時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」ということに抗っていたのかもしれません。 しかし、最近また、この言葉を思い出しました。
節子を見送ってから、私はふたつに分かれているような気がします。
節子を失って嘆き悲しんでいる私と、その私を見て悲しんでいる私です。
いずれも悲しんではいるのですが、かなり違う悲しみです。
前者においては悲しみがまさに生きることのすべてですが、後者においては悲しみはただただ悲しいだけの話です。
これでは違いが分かりにくいと思いますが、繰り返せば、前者は悲しむことで心身が満たされるのですが、後者は不安だけが残ります。
自分でもよくわかっていないので、説明がうまくできませんが、2人の私がいることだけは確信できます。
しかしその2人の私が、最近、合体してきているような気がします。
それがもしかしたら、カバット・ジンがいう「時間が経てば痛みは引く。大幅に軽減されることもある」ということかもしれません。
今日もさわやかな秋晴です。
青い空を見ているといろんなことを思い出します。
学生の頃から青い空を見ていると、私はそこに吸い込まれそうな気がします。
空を見ていると、何もかが瑣末に感ずるのです。
そして、何も変わっていないのではないかとつい思います。
階下で節子が洗濯物を干しているような、そんな気がしてなりません。
私も元気に、その節子に声をかけて、今日の集まりに出かけましょう。
またたくさんの人に会える1日になりそうです。
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