■節子への挽歌1202:幸せな死のために何が必要か
ご自宅で奥様を看取られた経験から、地域社会になにがあればいいと思われましたか、とある人に訊ねられました。
死生学に取り組まれている先生なのですが、そろそろ「死」に正面から向かっての議論をするべきではないかとお考えのようです。
そして在宅で死を迎える社会へ戻していきたいと思われているようです。
その方は以前から知り合っていた方ですが、節子が朝日新聞に投稿した「いいことだけ日記」が印象に残っていたそうです。
それから数年して、その投稿主の節子が私の伴侶で、「いいことだけ日記」を勧めたのが私だと知ったのだそうです。
世界はほんとうに狭いのです。
ところで、その質問に、私は正直、たじろぎました。
実は、私には節子を「看取った」という感覚がないのです。
そうか私は節子を看取ったのだ、と改めて認識しました。
次に思ったのは、なに一つ不満はない、ということでした。
死を迎えるために、何が必要でしょうか。
愛する人がそこにいればいいだけなのです。
しかし、そう言い切れる私たちは、とても幸せなのかもしれません。
死を支える仕組みは、たしかに大切かもしれません。
最近では、孤独死が問題になっています。
しかし、それらは「死に方」の問題ではなく「生き方」の問題です。
孤独死が問題なのではありません。
孤独な生き方が問題なのです。
問題設定を間違えると答えはみえなくなりますが、なぜかみんな孤独死を問題にします。
以前も書きましたが、医師はよく死を避けられない患者の家族に対して「死に方」が大切だと言いますが、とんでもありません。
当事者にとっては、死に方など考える必要はなく、あくまでも大切なのは「生き方」です。
「死に方」を問題にする社会は、私には壊れた社会に思えてなりません。
「死に方」を問題にする医師には、私は自らの生を預ける気にはなりません。
しつこいですが、大切なのは「生き方」です。
生き方がしっかりしていれば、孤独死など起ころうはずがないと、私は確信しています。
もちろん「自殺」も起こりません。
すべての根本は「生き方」なのです。
その方の質問に、私は「なにもありません」と答えましたが、質問が間違っていることに気づきました。
奥様が生きるために、地域社会になにがあったらよかったと思いますか、と訊かれたら、なにか思いついたかもしれません。
しかし、それはきっと、私たちの生き方に深くつながっているはずです。
そう考えながら、私たちの生き方はとてもいい生き方なのだと自賛したくなりました。
もちろんそういう生き方ができたのは、たぶん節子のおかげです。
感謝しなければいけません。
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