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2011/01/06

■政治への期待の喪失

政治家が住んでいる世界はどうも私たち生活者とは違う世界のようだと、最近多くの人が気づきはじめたのではないかと思います。
最近の菅首相や小沢さんの発言を聞くにつけ、そう感ずる人は増えているでしょう。
何も考えてこなかったテレビのキャスターたちも、さすがに最近はそういう発言をし出しました。
まあ、かれらもまた生活者とは違う世界に生きているようにも思いますが。

学者が実際の世界とは別の世界に住んでいることはよく言われることです。
同じ世界に住んでいたら学問は発展しません。
実際の経済を全く知らない経済学者、経営を全く知らない経営学者の話は、もう常識でしょう。
実際の世界を知っていたら経済学も経営学も成り立ちません。
彼らの役割は、別のところにあるのです。

同じことが政治にも言えます。
実際の生々しい現実に立脚し、個々の事情を斟酌しだしたら、統治はできません。
そんなことをしていたら、コラテラルダメッジに対して躊躇してしまい、全体にもっと大きなダメッジを与えてしまうからです。
と、思っているのです。
もちろん私は違う考えを持っています。

小沢さんが「生活視点」という場合の「生活」と個々の生活者が考えている生活とは違うものなのでしょう。
マスとしての生活と表情のある個別の生活は、違う世界の話です。
にもかかわらず、同じ言葉で語られるが故に、私たちは勘違いしがちです。
そして、その勘違いをうまく活かしながら、政治は生活者の世界とのつながりをつくりだしてきたのです。
政治に不満があっても、生活者が期待を持てたのは、そのおかげです。

しかし、ここまでその違いがあからさまになると、政治への見方が変わり、政治への期待の喪失が起こるかもしれません、
期待が変わるとどうなるか。
その結果の不幸な事例は歴史の中にたくさんあります。
そんな事態が、いま日本で始まっているのではないか、そんな不安が拭えません。

首相がテレビキャスターに追い詰められている姿は、私はあまり見たくありませんでした。
質の悪いポピュリズムあるいは民主主義の崩壊の始まりを感じます。
時評へのモチベーションが維持できないでいます。
私自身の心が衰えているからでしょうが。

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