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2011/01/29

■節子への挽歌1244:ラスコーの壁画

フランス南西部のラスコーの壁画といえば、学校の教科書にも出てくる有名な先史時代の遺跡です。
1万5千年前にクロマニヨン人が壁に描いたものだとされています。
発見されたのは1940年頃です。
一時は観光客にも開放されていましたが、壁画の外傷と損傷を防ぐため、50年ほど前に洞窟は閉鎖されました。
代わりに、そのすぐ近くに実物そっくりの洞窟壁画が作られているそうです。
そして、今はそこが観光客に開放されています。

そのことを私はある本で読んだのですが、その本によれば、それがコピーであることはどこにも掲示されていないので、ほとんどの人がコピーであるとは思いもしないというのです。
もし知っていても、実際に見ている時には、そんな事を意識もしないでしょう。
私も以前、家族と一緒に、飛鳥の高松塚古墳の壁画を見たことがありますが、私も節子も、それがコピーであるかどうかなどは気にしませんでした。
完璧なコピーだからです。
時間が少し経てば、コピーと本物の差は誰にもわからなくなるでしょう。

こんなことを書いたのは、昨日書いた「現実は現実なのか」という話に触発されたからです。
あの記事を書いた後、急に映画「ソラリス」を思い出したのです。
「ソラリス」のことは前にも書きましたが、ポーランドのスタニスワフ・レムの小説『ソラリスの陽のもとに』が映画化されたものです。
この小説は2回、映画化されていますが、今回思い出したのは、2作目のアメリカ映画のほうです。

惑星ソラリスの表面全体を覆う知性を持つ「海」とその探査に取り組む人間との奇妙なコミュニケーションがその映画の内容なのですが、ソラリスに新たに赴任した科学者クリスが、驚くべき出来事に直面するというところから映画は始まります。
その出来事とは、自殺した妻が突然に現れるのです。
それは、「ソラリスの海」が、クリスの記憶を読み取り、それを再合成して送り出してきたものなのです。
ですからクリスにとっては、理想化された妻でもあるわけです。
記憶から合成されたものですから、いくら消そうと思っても消えません。
アメリカの作品は、クリスとその「妻もどき」との関係はかなりの軸になっています。

そもそもこの映画のテーマは「コミュニケーション」であり、「意思疎通できない生命体と人間とのコミュニケーション、もしくはややこしい関係」なのですが、そうした極めて思弁的なテーマを、極めて生々しい愛の関係に絡めて物語を展開するのは、いかにもアメリカ的です。
実はレムの原作にはそんなややこしい話は出てこなかったように思います。
私がこの原作を読んだのは、節子にちょうど会った頃です。
SFマガジンという雑誌に翻訳が連載されていたのです。
知性を持つ海の話は、節子に何回もしましたが、なかなか興味を持ってはもらえませんでした。
当時の節子は、まだ頭の固い常識人だったのです。

挽歌90で、ソラリスのことを少し書いたことがあります
その時は、亡くなった妻との再会を結局は拒否してしまうクリスと違って、私は再現された節子との世界に埋没してしまうだろうと書きました。
同時に、しかし、「想念」が創りだした節子と実在した節子とは別人であり、それは節子への裏切り行為でしかない、とも書きました。

考えが変わりました。
ラスコーの話を知って、コピーと本物が結局は同じなのだと思うようになりました。
差別化しているのは、お金儲けの商業主義者か権威にしがみつく権威主義者です。
生活しているものにとっては、どちらでも同じです。
そう考えるようになったのは、もしかしたらボードリヤールの影響かもしれません。
ラスコーの話を知ったのは、ボードリヤールの最後の著作の「悪の知性」なのです。

その本でボードリヤールはこう問いかけています。
「コピーがコピーであることをやめたとき、オリジナルはいったいどうなるのだろうか」
答は明確です。
コピーがコピーであることをやめたとき、オリジナルもコピーもなくなるのです。
つまり、実体化された節子は、実在していた節子とまさに同じものなのです。

彼岸がまた少し見えた気がします。

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